昔話シリーズ その13 おむすびころりん
この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)で行われてみんなの坐禅会(子供坐禅会)で私が話した内容をまとめたものです。

昔話シリーズ【13】 おむすびころりん
恥ずかしながら「おむすびころりん」について私は「おむすびが転がった話し」という認識しかありませんでした。
それ以上の話しは知らず大人になってしまったことを今は後悔しています。
「おむすびころりん」の話しは
心優しいおじいさんが畑の仕事の合間におむすびを落としてしまう所から始まります。
おむすびはコロコロ転がって穴の中へ、おじいさんも一緒に穴に落ちてしまいます。
しかし、この穴はただの穴ではなく驚くことに奥に明るいネズミの宮殿があったのです。
転がってきたおむすびにネズミたちは大喜び。
転がしてくれたおじいさんを温かく出迎え、最後には御礼(宝物)まで持たせます。
この話を聞いた欲深い隣のおじいさんも御礼が欲しくなっておむすびを持って同じ場所へ。
おむすびを穴の中に投げ込み、自分も入ります。
そこには、ネズミたちがいるのですが御礼の品(宝物)が欲しい欲張りじいさんはネズミを追い払って宝物をいただこうと考えます。
そこで、よくばり爺さんはネコの鳴きまねをしました。ネコが来たと驚いたネズミたちは慌てて逃げていきますが、その際にネズミ達は見つからないように灯りを消して逃げたのです。
すると穴の中は真っ暗になってしまいました。
よくばり爺さんは、真っ暗な穴の中から出ることができなくなってしまいました。
というお話です。
仏教の言葉に自灯明【じとうみょう】という言葉があります。
自灯明には自分自身を拠り所にするという意味があります。
拠り所となる「自分自身」とは「悟り」とも表現される、「こだわりのない仏様の心」だと表現することができます。
「おむすびころりん」の話しの中で、おむすびが転がって入った穴の中の明るさや様子は、その人の心の明るさ、自灯明を表しているように感じます。
宮殿こそ私達の心であり、欲を出さず素直に入っていけば明るいままです。しかし、欲を出してしまえば自分自身が灯りを消してしまい迷い苦しんでしまいます。
灯りを点けたままにするのか消してしまうのか。全ては自分次第だということを改めて伝えてくれている話なのかもしれません。

昔話シリーズ【13】 おむすびころりん
恥ずかしながら「おむすびころりん」について私は「おむすびが転がった話し」という認識しかありませんでした。
それ以上の話しは知らず大人になってしまったことを今は後悔しています。
「おむすびころりん」の話しは
心優しいおじいさんが畑の仕事の合間におむすびを落としてしまう所から始まります。
おむすびはコロコロ転がって穴の中へ、おじいさんも一緒に穴に落ちてしまいます。
しかし、この穴はただの穴ではなく驚くことに奥に明るいネズミの宮殿があったのです。
転がってきたおむすびにネズミたちは大喜び。
転がしてくれたおじいさんを温かく出迎え、最後には御礼(宝物)まで持たせます。
この話を聞いた欲深い隣のおじいさんも御礼が欲しくなっておむすびを持って同じ場所へ。
おむすびを穴の中に投げ込み、自分も入ります。
そこには、ネズミたちがいるのですが御礼の品(宝物)が欲しい欲張りじいさんはネズミを追い払って宝物をいただこうと考えます。
そこで、よくばり爺さんはネコの鳴きまねをしました。ネコが来たと驚いたネズミたちは慌てて逃げていきますが、その際にネズミ達は見つからないように灯りを消して逃げたのです。
すると穴の中は真っ暗になってしまいました。
よくばり爺さんは、真っ暗な穴の中から出ることができなくなってしまいました。
というお話です。
仏教の言葉に自灯明【じとうみょう】という言葉があります。
自灯明には自分自身を拠り所にするという意味があります。
拠り所となる「自分自身」とは「悟り」とも表現される、「こだわりのない仏様の心」だと表現することができます。
「おむすびころりん」の話しの中で、おむすびが転がって入った穴の中の明るさや様子は、その人の心の明るさ、自灯明を表しているように感じます。
宮殿こそ私達の心であり、欲を出さず素直に入っていけば明るいままです。しかし、欲を出してしまえば自分自身が灯りを消してしまい迷い苦しんでしまいます。
灯りを点けたままにするのか消してしまうのか。全ては自分次第だということを改めて伝えてくれている話なのかもしれません。
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