オンライン坐禅会での法話【一般向け:仏教聖典 心を清める1 正しく見る その2】
この記事はオンライン坐禅会で話した内容を自分の備忘録として記したもので前回の記事の続きです。
※前回の記事(心を清める1 正しく見る)はこちらです。
今回は「正しく見ることができていない自分に気がついたとき、恥ずかしさのあまり顔が赤くなった」という話しです。
お釈迦様の教えをまとめた仏教聖典に「心を清める」という項目があり、そこには「煩悩から離れる五つの方法」が紹介されています。
その中に
「ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。
すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。」
と、「正しく見る」ことの大切さが説かれています。

禅の修行には「参禅」というものがあります。
いわゆる一般の方が想像する「禅問答」と思っていただいても良いかと思います。
師匠からいただいた問題の回答を師匠に聞いてもらったり見ていただく場です。
この参禅は、おおよその流れが決まっています。
師匠の待つ部屋で参禅は行われるのですが、みんなが一緒の部屋に入って行うことはありません。
流れは、坐禅をしていると「参禅開始」の合図があります。
合図を聞くと、修行僧は参禅(禅問答)を行う部屋へ向かいます。
部屋の前に到着した順に並びます。
1人が部屋に入り、問答をして、終わると出ていきます。
すると次の人が入る。
といった具合です。
当然、前の人が終わるまで廊下で待っています。
師匠は参禅終了の合図を鐘や鈴で行います。
どんなときでも、この音が聞こえたたらそこで参禅は終わりです。
頭を下げて部屋の外に出なくてはいけません。
そして、廊下で順番を待つ者は、前の人の終了の合図が聞こえたら前へと進み部屋に入っていくのです。
ある日の出来事です。いつものように「参禅開始」の合図が聞こえたので師匠が待つ部屋へと急ぎました。この日、私は2番目に到着しました。
1番の最初に到着した修行僧が部屋に入り、問答が始まります。
外で待つ者に中の声はあまり聞こえません。
ところが、この日は違いました・・・
師匠の怒鳴り声が廊下まではっきりと聞こえるのです。
どうも、1番最初に入室した人が師匠を激怒させるようなことを言ったようでした。
これまでに聞いたことがないような師匠の怒鳴り声の後に、「チリリリン~」と1人目参禅終了の鈴の音が高らかに響き渡りました。
私は驚きながらも鈴の音が聞こえたので入室をしようと廊下を歩き、怒鳴られしょんぼりとした1人目の修行僧とすれ違い、師匠の待つ部屋に入りました。
入室して一歩進むと
「チリリリン~」
鈴の音が聞こえます。
「え!?終わり??」
驚いて師匠の顔を見ると、師匠は何も言わずにジッとこっちを見ています。
「まだ、何もしてないのに・・・」
とは心の中で思っても口に出せるはずもなく、部屋を出るしかありませんでした。
坐禅をする場所に戻るために廊下を歩いていると
「チリリリン~」
「チリリリン~」
次々に鈴の音が聞こえてきます。
みんな、部屋に一歩足を踏み入れて鈴を鳴らされているようでした。
坐禅をする場所に戻り坐禅をしていてもなんだか落ち着きません。
「なんで、前の人が師匠を怒らせたからと言って他の人達にまで影響が出なくてはいけないんだ!」
怒りすら湧いてきます。
連続して聞こえていた鈴の音が鳴りやんでも、私はモヤモヤとした心で坐禅をしていました。
しばらく静寂が続いた後、遠くで「チリリリン~」と鈴の音が聞こえ、しばらくして1人の先輩が私の前をスーッと静かに横切って歩いて行きました。
しばらくの静寂の後に聞こえた鈴の音と、先輩の姿を見たとき
「あ、先輩は入室が許されていつも通り参禅をすることができたんだ!」
と思うと同時に私は恥ずかしくなりました。
私は、自分が入室したと同時に参禅終了の鈴を鳴らされたのは、師匠を激怒させた1人目の修行僧のせいだと見ていたのです。彼が間違いを犯し師匠の機嫌が悪かったから次々に鈴が鳴らされたと見てしまったのです。
ところが、先輩は入室が許させた。それはなぜか。先輩の歩く姿を見たときに分かりました。
先輩はいつも通り、静かに美しく歩いていたのです。
私は前の人が怒鳴られているのを聞いて浮足立っていたのです。
そんな歩き方しかできない人の答えなど師匠は聞いても仕方ないと判断し鈴を鳴らされたのです。
私は物事を正しく見ることができていなかった自分を恥じるとともに、いつも通りに歩く先輩の姿に胸が熱くなったことをよく覚えています。
物事を正しく見ることは簡単なことではありません。
しかし、不可能なことでもありません。
例えば、私が部屋から出された直後に先輩の入室が許される光景を見てしまっていたら、私は自分の間違いに気がつくことはできなかったかもしれません。
しかし、短い時間でも坐禅をする時間があったからこそ、先輩の歩く姿を正しく見ることができたように思います。
正しく物事を見るためには、心を調えた状態で外を見ることが大切です。
心を調えるためには、静かに姿勢を調えて呼吸を調えることが大切です。
姿勢と呼吸を調えて心を調える坐禅は、私達が物事を正しく見るための第1歩になるのではないでしょうか。
※前回の記事(心を清める1 正しく見る)はこちらです。
今回は「正しく見ることができていない自分に気がついたとき、恥ずかしさのあまり顔が赤くなった」という話しです。
お釈迦様の教えをまとめた仏教聖典に「心を清める」という項目があり、そこには「煩悩から離れる五つの方法」が紹介されています。
その中に
「ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。
すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。」
と、「正しく見る」ことの大切さが説かれています。

禅の修行には「参禅」というものがあります。
いわゆる一般の方が想像する「禅問答」と思っていただいても良いかと思います。
師匠からいただいた問題の回答を師匠に聞いてもらったり見ていただく場です。
この参禅は、おおよその流れが決まっています。
師匠の待つ部屋で参禅は行われるのですが、みんなが一緒の部屋に入って行うことはありません。
流れは、坐禅をしていると「参禅開始」の合図があります。
合図を聞くと、修行僧は参禅(禅問答)を行う部屋へ向かいます。
部屋の前に到着した順に並びます。
1人が部屋に入り、問答をして、終わると出ていきます。
すると次の人が入る。
といった具合です。
当然、前の人が終わるまで廊下で待っています。
師匠は参禅終了の合図を鐘や鈴で行います。
どんなときでも、この音が聞こえたたらそこで参禅は終わりです。
頭を下げて部屋の外に出なくてはいけません。
そして、廊下で順番を待つ者は、前の人の終了の合図が聞こえたら前へと進み部屋に入っていくのです。
ある日の出来事です。いつものように「参禅開始」の合図が聞こえたので師匠が待つ部屋へと急ぎました。この日、私は2番目に到着しました。
1番の最初に到着した修行僧が部屋に入り、問答が始まります。
外で待つ者に中の声はあまり聞こえません。
ところが、この日は違いました・・・
師匠の怒鳴り声が廊下まではっきりと聞こえるのです。
どうも、1番最初に入室した人が師匠を激怒させるようなことを言ったようでした。
これまでに聞いたことがないような師匠の怒鳴り声の後に、「チリリリン~」と1人目参禅終了の鈴の音が高らかに響き渡りました。
私は驚きながらも鈴の音が聞こえたので入室をしようと廊下を歩き、怒鳴られしょんぼりとした1人目の修行僧とすれ違い、師匠の待つ部屋に入りました。
入室して一歩進むと
「チリリリン~」
鈴の音が聞こえます。
「え!?終わり??」
驚いて師匠の顔を見ると、師匠は何も言わずにジッとこっちを見ています。
「まだ、何もしてないのに・・・」
とは心の中で思っても口に出せるはずもなく、部屋を出るしかありませんでした。
坐禅をする場所に戻るために廊下を歩いていると
「チリリリン~」
「チリリリン~」
次々に鈴の音が聞こえてきます。
みんな、部屋に一歩足を踏み入れて鈴を鳴らされているようでした。
坐禅をする場所に戻り坐禅をしていてもなんだか落ち着きません。
「なんで、前の人が師匠を怒らせたからと言って他の人達にまで影響が出なくてはいけないんだ!」
怒りすら湧いてきます。
連続して聞こえていた鈴の音が鳴りやんでも、私はモヤモヤとした心で坐禅をしていました。
しばらく静寂が続いた後、遠くで「チリリリン~」と鈴の音が聞こえ、しばらくして1人の先輩が私の前をスーッと静かに横切って歩いて行きました。
しばらくの静寂の後に聞こえた鈴の音と、先輩の姿を見たとき
「あ、先輩は入室が許されていつも通り参禅をすることができたんだ!」
と思うと同時に私は恥ずかしくなりました。
私は、自分が入室したと同時に参禅終了の鈴を鳴らされたのは、師匠を激怒させた1人目の修行僧のせいだと見ていたのです。彼が間違いを犯し師匠の機嫌が悪かったから次々に鈴が鳴らされたと見てしまったのです。
ところが、先輩は入室が許させた。それはなぜか。先輩の歩く姿を見たときに分かりました。
先輩はいつも通り、静かに美しく歩いていたのです。
私は前の人が怒鳴られているのを聞いて浮足立っていたのです。
そんな歩き方しかできない人の答えなど師匠は聞いても仕方ないと判断し鈴を鳴らされたのです。
私は物事を正しく見ることができていなかった自分を恥じるとともに、いつも通りに歩く先輩の姿に胸が熱くなったことをよく覚えています。
物事を正しく見ることは簡単なことではありません。
しかし、不可能なことでもありません。
例えば、私が部屋から出された直後に先輩の入室が許される光景を見てしまっていたら、私は自分の間違いに気がつくことはできなかったかもしれません。
しかし、短い時間でも坐禅をする時間があったからこそ、先輩の歩く姿を正しく見ることができたように思います。
正しく物事を見るためには、心を調えた状態で外を見ることが大切です。
心を調えるためには、静かに姿勢を調えて呼吸を調えることが大切です。
姿勢と呼吸を調えて心を調える坐禅は、私達が物事を正しく見るための第1歩になるのではないでしょうか。
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