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写経会のときに どんな話しをしているの? その70

600絵葉書 無依の道人





この写真に写っている坐禅をしている人は私です。



違和感はありませんか?



あるものが足りないのです。




そう、絡子【らくす】がないのです。




「絡子ってエプロンみたいなやつ!?」



正解です!!






小さなエプロンにも見えるものが絡子です。


でも、エプロンや前掛けではありません。





日本の僧侶は衣(和服)を着て、その上に袈裟【けさ】を身に着けます。


仏教が誕生した現在のインドやネパールの僧侶は1枚の布だけを身に着けています。


これが袈裟です。




いつも袈裟で生活ができれば良いのですが、これは難しいのです。


そこで絡子【らくす】の出番です!


略式な袈裟が絡子なのです!





僧侶が着ているものの中で一番重要なものといっても過言ではないのが絡子なのです。



写真の私は、その絡子を着けていない。



なぜでしょうか?



それは、少し前に絡子を忘れて子供坐禅会を開催していた私を再現した写真だからです。







東光寺(静岡市清水区横砂)の子供坐禅会では2回の坐禅を行っています。



1回目の坐禅中は私も子供と一緒に坐ります。


2回目は警策【けいさく】を持って歩きます。

絡子を忘れた日、2回目の坐禅が始まり警策を持とうと動いたときに

「あ、絡子がない!!!!!」

と気がつきました。





ビックリしました。


声が出てしまうくらいビックリしました。


声を出したり動揺したりしてはいけないと考えるのですが 絡子をしていない自分が警策を持って子供の前を歩いている姿があまりにもみっともなく思えて恥ずかしい気持ちになっていました。







絵葉書には


無依の道人【むえのどうにん】


という言葉が添えてあります。






なにものにも頼らない仏道修行者を表す禅の言葉です。

無依の道人の「依」は「よりすがる、頼る、従う」という意味をもつ漢字です。

依とは人が衣、つまり服を着ているという字の作りになっています。ですから、人が服を着るから安心するという意味も含まれています。

この依に「無」をつけると服を着ない、裸、ということになるのですが、この無依は物理的に裸になりなさいという意味ではもちろんありません。





ここにある「衣」は服ではなく、私達が普段、身につけることで安心をしている「経験や知識」ということができます。




つまり、「無依」は、知識や経験といった余計なものを脱ぎ捨てることの大切さを表す言葉なのです。


もちろん、知識や経験は大切です。



しかし、自分の経験や偏った知識だけに頼ってしまうと、偏見や思い込みが発生します。



自分こそ正しい、自分の考だけが正しい!



と考えるようになってしまう心を「我【が】」と言います。



この「我」を捨てなさいと説いたのが無依の道人という禅の言葉なのです。







絡子を忘れたことに気がついたとき、絡子をしていない自分が警策を持って子供の前を歩いている姿があまりにもみっともなく思えて恥ずかしい気持ちになっていました。




しかし、絡子を忘れたことに気がついていないときは堂々と坐禅をしていました。




「絡子は大切なもので、絶対にしなくてはいけない!」

という思い込み、

「毎回、絡子を着けて坐禅会に出ていた」




という経験にしばられて 自分の中に絡子なしだと恥ずかしいという「我」が出来上がってしまったのです。




絡子を忘れたことに気がつかないで坐禅をしている姿こそが“無依”であったと後から分かった気がしました。



つまり「無依の道人」とは特別な存在ではなく、いつもの自分の中にこそあったのだと絡子を忘れることで気がつけた気がします。




この「無依の道人」の状態は、皆様が写経を行っているときにもなっています。



写経をしていると、ついつい周囲の人の進み具合が気になったり、この後の予定が気になるものです。



しかし、実際に写経をしてみると周囲に影響されることなく自分のペースで写経をすることができている時間があると思います。



この時間こそ、その方が「無依の道人」を実体験しているときなのです。



写経をしながら、ふと「あ~、集中力が切れた!」と感じることがあると思います。



しかし、その時にこそ「あ、ということは さっき(集中していないことに気がつく直前)までは、自分が「無依の道人」だったと思っていただければ幸いです。
















「無依の道人」という言葉は「知識や経験」といった余計なものを脱ぎ捨てることで、私達自身が仏だと気が付きなさいと説いてくださっているのです。




しかし、いつでも「知識や経験」といった余計なものを脱ぎ捨ていいのかといえばもちろん違います。



風呂に入るときには裸になり、風呂から出れば服を着る



これも「知識や経験」があるからできることです。



大切なことは、余計なものを自由自在に脱ぎ捨てることができることだと私は考えています。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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