悪口なのか、助言なのか 【達磨安心】

同じ言葉を聞いて
「悪口を言われた!」
と感じる人もいれば、
「アドバイスをしてもらえた!」
と感じる人もいます。
東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗(禅宗)の寺です。
禅宗ではダルマさんとも親しまれている達磨大師【だるまだいし】を禅宗の最初の和尚様としてとても大切にしています。

その達磨大師と弟子の有名な問答があります。
弟子が
「私の心を安定する道を教えてください。」
と聞くのです。すると達磨大師は
「君の心を持ってくるのだ。君の為に安定させてやる」
と答えます。
「お前の心が不安でならぬというが一つその不安な心をここに持ってきなさい、安心させてやろう。」
と言うのです。これに対して弟子は
「その不安な心を探し求めて見ましたが、これが私の心であると言うべきものはございません。」
と答えるのです。そこで達磨大師は
『汝がために安心しおわぬ』
つまり、
「さあ、もうちゃんと安心させたよ。」
と答えるのです。
昭和の時代まで大変に活躍をされた山本玄峰老師の無門関提唱にはこの達磨大師と弟子の問答の最後の部分
「探し求めた」ということに注目をしながら次のように書かれています。
そのくらいのことはだれでもいうんじゃが、
それを悟るまでにちょうど瓦に火をつけるようではどんないいことを言うても火はつかん。
もう枯れ切ってパッといったらパッと火が燃えつくごとくに、妄想とか煩悩とか愚痴とか我慢とかそんなものは何もなくなっていって、そこにちょっとした拍子にパッと火がつくようにならなきゃいかん。
と言っているのです。
「心を出せと言われたから出そうとした」
言葉にするとこれだけなのですが、この弟子は出そうとするために難行苦行をし、徳を積んできたのです。
だからこそ、妄想とか煩悩とか愚痴とか我慢とかそんなものは何もなくなった状態になって達磨大師の
『汝がために安心しおわんぬ』
つまり「さあ、もうちゃんと安心させたよ。」という言葉がわかったのです。
この逸話と老師の言葉に触れたとき、
相手の言葉が悪口のように聞こえるか、助言に聞こえるかは自分自身が決めていること、そして自分自身の努力によって今まで無責任な言葉や悪口に聞こえていた言葉も、助言に変わるのではないかと思うことができました。
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