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オンライン坐禅会での法話【子供向け:映画ドラえもんと坐禅の共通点】

臨済宗青年僧の会ではオンライン坐禅会を実施しています。私も時々ですが坐禅を担当させていただいています。
※オンライン坐禅会のホームページはこちらです。


その際に話した内容を備忘録として記しておこうと考えています。


オンライン坐禅会には一般の方向けの会と子供向けの会があります。


今回は子供向けの坐禅会で話したものです。




【映画ドラえもんと坐禅の共通点】




私は数年前からクレヨンしんちゃんの映画を見るようになりました。


ドラえもんの映画は小学生の頃から見ています。


これは私の個人的な感想なのですが、普段、テレビで放送されているとドラえもんと映画のドラえもんには違いがあるように思います。そして、クレヨンしんちゃんにも同じような違いがあると思っています。


600オンライン坐禅会 法話 子供向け 平常心 長谷部選手と映画ドラえもんやクレヨンしんちゃんの共通点1



しかし、映画ドラえもんと映画クレヨンしんちゃん、さらにサッカーの元日本代表キャプテン・長谷部誠選手には共通するものがあると思います。




私はドラえもんやクレヨンしんちゃん普段のアニメと映画の違いは、話の終わり方だと思います。


15分弱のアニメの場合、ドラえもんではのび太君がひみつ道具に頼りすぎて失敗をしたり、クレヨンしんちゃんでは、しんちゃんのお父さんがズッコケて 終わるような展開が多いと思います。


これに対して映画では様々な大冒険の末に「日常」に帰ってきて映画が終わることが多いように感じます。


ドラえもんならのび太君が元気に「行ってきます!」といって学校へ向かったり、クレヨンしんちゃんならしんちゃんがお母さんに叱られたりしています。


何気ない、いつもの姿が幸せだったと教えてくれる終わり方が多いと思います。





600オンライン坐禅会 法話 子供向け 平常心 長谷部選手と映画ドラえもんやクレヨンしんちゃんの共通点2


これは「無事にかえる」ことの素晴らしさを教えてくれているように私は感じています。





サッカーの元日本代表キャプテン・長谷部誠選手は著書の中で



600オンライン坐禅会 法話 子供向け 平常心 長谷部選手と映画ドラえもんやクレヨンしんちゃんの共通点3

どんなときにでも、1日の最後に必ず30分間心を鎮める時間をつくることを大切にしている。


と書いていました。そしてそのために、静かな場所で姿勢と呼吸を整えているとも書いてありました。



世界の強豪と戦うワールドカップという大きな大会中でも必ず「心を鎮める時間」をとっていたそうです。



仏教ではこのように「姿勢と呼吸を整えて心を鎮める時間」を坐禅と呼んでいます。



そして、心を調える(整える)ことで、自分自身の本当の心、自分には仏様のような尊い心がある事に気がつくことを「無事にかえる」と表現しています。





600オンライン坐禅会 法話 子供向け 平常心 長谷部選手と映画ドラえもんやクレヨンしんちゃんの共通点5


つまり、映画ドラえもんと映画クレヨンしんちゃんとサッカー日本代表キャプテンの長谷部選手の共通点は「無事にかえる」ことの大切さを教えてくれているということです。


ドラえもんやクレヨンしんちゃん大冒険をすることで「無事」や「日常」とも呼ばれるいつもの暮らしの尊さに気がつくことができました。


では、私達も大冒険をしなくてはいけないのでしょうか。


そうではないことを長谷部選手が「心を整える」という言葉で示してくれています。


私達は大冒険をしなくても姿勢と呼吸を調えることで心を調えて、無事にかえることができるのです。


ドラえもんやクレヨンしんちゃんのように大冒険ができない方は、


ぜひ、これから「無事にかえる」ことができる坐禅に挑戦してみてはいかがでしょうか?

オンライン坐禅会 皆様の声

640オンライン坐禅会皆様の声


臨済宗青年僧の会が主催するオンライン坐禅会は4月26日の開始以来、これまで毎日開催を続けています。


このオンライン坐禅会に対して、これまでに多くの御意見や御感想をいただいています。


坐禅会を終えるときに、直接声をかけてくださる方や、SNSを通して個別に連絡をくださる方、日常生活の中でお会いしたときに声をかけてくださる方など様々です。


そんないただいた意見の中で、臨済宗青年僧の会のホームページを通しての感想は、ホームページ(皆様の声)に公開をしています。




「よかったよ!」という感想もあります。

「ここは良くなかったよ!」という意見もあります。




先日、臨済宗青年僧の会のホームページ担当として9月末日まで、さらに10月初旬にいただいた御意見をアップロードさせていただきました。


事務局にとって辛い御意見をありますが、質問以外の御意見は修正することなくすべて掲載をしています。


オンライン坐禅会に参加してくださったことがある方の中には「みんなはどんな意見を出しているのかを・・・・


まだ参加されたことがない方は、御意見や御感想を読むことでオンライン坐禅会がどのようなものか全体像をつかめるかもしれません。


参加を考えているが、まだオンライン坐禅会には参加していないかたも、感想を読むとオンライン坐禅会がどのようなものか想像しやすくなるかもしれません。



興味のある方ぜひ!!
※オンライン坐禅会の感想はこちらです。

オンライン坐禅会での法話【一般向け:仏教聖典 心を清める1 正しく見る その2】

この記事はオンライン坐禅会で話した内容を自分の備忘録として記したもので前回の記事の続きです。
※前回の記事(心を清める1 正しく見る)はこちらです。

今回は「正しく見ることができていない自分に気がついたとき、恥ずかしさのあまり顔が赤くなった」という話しです。




お釈迦様の教えをまとめた仏教聖典に「心を清める」という項目があり、そこには「煩悩から離れる五つの方法」が紹介されています。



その中に

「ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。
すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。」


と、「正しく見る」ことの大切さが説かれています。






こまめ 礼拝シリーズ3 礼拝



禅の修行には「参禅」というものがあります。


いわゆる一般の方が想像する「禅問答」と思っていただいても良いかと思います。


師匠からいただいた問題の回答を師匠に聞いてもらったり見ていただく場です。


この参禅は、おおよその流れが決まっています。



師匠の待つ部屋で参禅は行われるのですが、みんなが一緒の部屋に入って行うことはありません。

流れは、坐禅をしていると「参禅開始」の合図があります。

合図を聞くと、修行僧は参禅(禅問答)を行う部屋へ向かいます。

部屋の前に到着した順に並びます。

1人が部屋に入り、問答をして、終わると出ていきます。

すると次の人が入る。




といった具合です。


当然、前の人が終わるまで廊下で待っています。

師匠は参禅終了の合図を鐘や鈴で行います。

どんなときでも、この音が聞こえたたらそこで参禅は終わりです。

頭を下げて部屋の外に出なくてはいけません。

そして、廊下で順番を待つ者は、前の人の終了の合図が聞こえたら前へと進み部屋に入っていくのです。





ある日の出来事です。いつものように「参禅開始」の合図が聞こえたので師匠が待つ部屋へと急ぎました。この日、私は2番目に到着しました。


1番の最初に到着した修行僧が部屋に入り、問答が始まります。


外で待つ者に中の声はあまり聞こえません。


ところが、この日は違いました・・・


師匠の怒鳴り声が廊下まではっきりと聞こえるのです。


どうも、1番最初に入室した人が師匠を激怒させるようなことを言ったようでした。


これまでに聞いたことがないような師匠の怒鳴り声の後に、「チリリリン~」と1人目参禅終了の鈴の音が高らかに響き渡りました。


私は驚きながらも鈴の音が聞こえたので入室をしようと廊下を歩き、怒鳴られしょんぼりとした1人目の修行僧とすれ違い、師匠の待つ部屋に入りました。


入室して一歩進むと


「チリリリン~」


鈴の音が聞こえます。


「え!?終わり??」


驚いて師匠の顔を見ると、師匠は何も言わずにジッとこっちを見ています。


「まだ、何もしてないのに・・・」


とは心の中で思っても口に出せるはずもなく、部屋を出るしかありませんでした。


坐禅をする場所に戻るために廊下を歩いていると


「チリリリン~」


「チリリリン~」


次々に鈴の音が聞こえてきます。


みんな、部屋に一歩足を踏み入れて鈴を鳴らされているようでした。


坐禅をする場所に戻り坐禅をしていてもなんだか落ち着きません。


「なんで、前の人が師匠を怒らせたからと言って他の人達にまで影響が出なくてはいけないんだ!」


怒りすら湧いてきます。


連続して聞こえていた鈴の音が鳴りやんでも、私はモヤモヤとした心で坐禅をしていました。


しばらく静寂が続いた後、遠くで「チリリリン~」と鈴の音が聞こえ、しばらくして1人の先輩が私の前をスーッと静かに横切って歩いて行きました。


しばらくの静寂の後に聞こえた鈴の音と、先輩の姿を見たとき


「あ、先輩は入室が許されていつも通り参禅をすることができたんだ!」


と思うと同時に私は恥ずかしくなりました。


私は、自分が入室したと同時に参禅終了の鈴を鳴らされたのは、師匠を激怒させた1人目の修行僧のせいだと見ていたのです。彼が間違いを犯し師匠の機嫌が悪かったから次々に鈴が鳴らされたと見てしまったのです。


ところが、先輩は入室が許させた。それはなぜか。先輩の歩く姿を見たときに分かりました。


先輩はいつも通り、静かに美しく歩いていたのです。


私は前の人が怒鳴られているのを聞いて浮足立っていたのです。


そんな歩き方しかできない人の答えなど師匠は聞いても仕方ないと判断し鈴を鳴らされたのです。



私は物事を正しく見ることができていなかった自分を恥じるとともに、いつも通りに歩く先輩の姿に胸が熱くなったことをよく覚えています。


物事を正しく見ることは簡単なことではありません。


しかし、不可能なことでもありません。


例えば、私が部屋から出された直後に先輩の入室が許される光景を見てしまっていたら、私は自分の間違いに気がつくことはできなかったかもしれません。


しかし、短い時間でも坐禅をする時間があったからこそ、先輩の歩く姿を正しく見ることができたように思います。



正しく物事を見るためには、心を調えた状態で外を見ることが大切です。


心を調えるためには、静かに姿勢を調えて呼吸を調えることが大切です。


姿勢と呼吸を調えて心を調える坐禅は、私達が物事を正しく見るための第1歩になるのではないでしょうか。

オンライン坐禅会での法話【一般向け:仏教聖典 心を清める1 正しく見る】

臨済宗青年僧の会ではオンライン坐禅会を実施しています。私も時々ですが坐禅を担当させていただいています。
※オンライン坐禅会のホームページはこちらです。




その際に話した内容を備忘録として記しておこうと考えています。


オンライン坐禅会には一般の方向けの会と子供向けの会があります。


今回は一般向けの坐禅会で話したものを紹介させていただきます。


文字にすると長くなってしまうので2つの話しに分けさせていただきます。



1つ目は「仏教聖典 心を清める1 正しく見る」という話し。

2つ目は「正しく見られていない自分に気がついたとき、恥ずかしさのあまり顔が赤くなりすぎて恥ずかしかった」という話しです。



この記事では【仏教聖典 心を清める1 正しく見る】を紹介します。




【一般向け:仏教聖典 心を清める1 正しく見る】




お釈迦様の教えをまとめた仏教聖典に「心を清める」という項目があります。


そこには「煩悩から離れる五つの方法」が紹介されています。


今回はその1つ目に書かれている「正しく見る」という部分に注目をしていきたいと思います。


仏教聖典には煩悩から離れるために



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「ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。

すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。」



とあります。



私は、この「正しく見ると」ということは「自分を正しく見なさい」とお釈迦様が説いてくださっているように感じます。



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もちろん「自分」というのは「自分の都合」や「わがまま(我)」ではなく、“本当の自分”とも表現される仏のような自分のことです。


これはなかなか難しいことです。


ここで、私自身の成功体験や正しく見ることができたという経験などを紹介できれば良いのですが・・・


なかなかそのような経験はありません。


反対の経験ならばいくつもありますので、次回の記事でそのひとつを紹介させていただきます。

オンライン坐禅会での法話【自分の考えか、他人のアドバイス、どっちが大切?】

640【般若心経】14手をみるこまめ



この記事はオンライン坐禅会で話した内容を自分の備忘録として記したもので前回の記事の続きです。
※前回の記事(生活信条を因数分解してみた)はこちらです。






臨済宗妙心寺派には生活信条という普段の生活で心にとめておく教えがあります。


その中に


人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう


という教えがあるのです。


これは、自分と他人の両方を大切にしようと捉えることができる文章ですが、


(自分+他人)の生活も大切にしましょう


と考えれば、(自分+他人)つまり、仏の心を大切にしましょうと考えることができるのです。
※詳しくは前回の記事をご覧ください。



以前「自分の意見と、他人の意見、どっちが大切なのでしょう」と悩む方がいらっしゃいました。


自分の意見も大切だから捨てられない。他人の意見も大切だから捨てられない。そのように悩むことは多くあります。


私は生活信条を因数分解した(自分+他人)の生活も大切にしましょうという言葉を借りれば、


自分の意見も他人の意見も大切にする


が1つの答えになると思います。これを


(自分+他人)の意見を大切にする


と変換すれば(自分+他人)を大切にすればよいことに気がつきます。


もちろん(自分+他人)は自分でもなく他人でもない、「自分だけが正しい」、「自分の意見なんかどうせダメだ」といったこだわりを捨てた心になったときに感じた意見です。




例えば、右手でペンを持って書き物をしているときに漢字が書けなくて左手でスマートフォンを使って調べたとします。


右手は「左手は調べるだけでずるいな。最後は俺がペンで書かなきゃいけないのだから俺の方が偉い!左手は偉そうにするなよ」と考え、


左手は「右手は調べてもらったことを書いているだけだから、俺がいなければ何もできないのだから偉そうにするなよ」


と考えるかもしれません。こうなれば、お互いがお互いのことを憎しみあい、左右の手が仕事を放棄してしまいます。



では、どうしたら良いのでしょうか。それは相手になりきることです。とてつもなく難しいことですが、「なりきる」ことに挑戦してみると、これまでと違う景色が見えてきます。


これは「相手の立場になって考える」とは少し違います


相手になりきり 自分になりきる ということは 時には徹底的に自分を滅し、時には徹底的に相手を滅するのです。


少しでも自分(我)が残っていれば相手の立場になりきれません。


少しでも周囲の目から見られた自分のことを考えてしまえば 本当の自分は見えてきません。


「なりきる」ことは簡単なことではありませんが、そのための手立てはいくつもあります。


そのひとつが坐禅であり読経です。


坐禅をするときに、身体を調え、呼吸を調え、心が調えば自然と「我」にとらわれていたことに気がつくことができます。


読経も同じです。


坐禅や読経など日常の中にある大切な「行【ぎょう:おこない】」を繰り返すことで 私達は 人間の尊さに目覚めると言われています。



人間の尊さに目覚めたとき、私達は自然と自分だけでもなく他人だけでもない(自分+他人)、つまり「仏の心」を大切に生活していくことができます。


そうなったときに「自分の考えか、他人のアドバイスか」ということを悩むことなく大切な答えを出すことができるのではないでしょうか。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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