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絵葉書法話30 【自灯明】

600写経会 絵葉書 30 自灯明



絵葉書【30】自灯明





ロウソクは自分自身の体を燃やして周囲を照らします。


そのため、残念ながらロウソクはやがて燃え尽きます。



太っている人が冗談で「私は太っているから、この脂肪を燃料として燃やしてご飯を炊きたい」と言っていたことがありました。
もし出来たとして、やはり脂肪もいつか燃え尽きてしまいます。




私達は、自分自身を燃料として周囲を照らしながら燃え続けることができないと思い込んでいます。


しかし、私達には自分自身を燃料として周囲を照らすことができるのです。


それが何かと言えば、私達が生まれたときから頂いている「こだわりのない仏様の心」なのです。





お釈迦様が亡くなられるときに


自灯明【じとうみょう】


という言葉を残されています。自灯明には


自分自身を拠り所にする


という意味があります。



 では、拠り所となる「自分自身」とは何のことでしょうか・・・・


拠り所となるのは「悟り」とも表現される、「こだわりのない仏様の心」だと表現することができるのではないでしょうか。


このように言われると 「私には仏様のような心なんてありません!!」 と感じる方もいらっしゃると思います。


私自身も、そのように感じていました。 しかし、ある和尚様が


子供は親を選べない

親は子供を選べない

しかし 

受け入れる

こだわりのない心で

受け入れる



「みなさん、子供を子供として、親を親として受け入れているじゃないですか。受け入れるこだわりのない心こそが、仏様の心なんですよ!」

 と表現されていました。 

 「仏様の心」の表現方法の1つとして、私は非常に分かりやすかったので今回の絵葉書には 


 「自灯明」 と 「子供は親を・・・・」


という言葉を載せさせていただきました。

絵葉書法話31【法灯明】

600写経会 絵葉書 31 法灯明




絵葉書にある大般若の法要は仏教の教えを体感する行事とも言われています。

仏教の教えを体感することで自分自身の心が光り輝き、誰かの真っ暗な心の中を照らし救っています。


絵葉書【31】法灯明





突然、お寺にやってきた女性に水子供養を依頼されたことがありました。

供養が終わると女性は、お寺の前を通りがかったときにお地蔵様の前で手を合わせている人を見て「自分もお参りがしたい」と感じてお寺に飛び込んだと話してくれました。

お地蔵様に手を合わせていたその姿が、女性の真っ暗な心の中を一筋の光で照らし導いてくれた出来事だったと感じます。


※この話しの詳細はこちらの記事で紹介しています。





般若心経の中に 「無明」 や 「老死」 という言葉が出てきます。

少し難しい言葉になってしまいますが、この部分は 無明から始まり、老死まで続く十二因縁【じゅうにいんねん】(十二縁起)について書かれた部分です。

十二因縁とは、人々の苦悩とそれを取り除く方法を順序立てた考え方で仏教の基本的な考え方の1つです。

そして、この苦悩というものは、正しい教えに出会うことができない「無明」から始まって、老いて死んでゆく「老死」まで続きます。しかし般若心経では、無明から始まり老死にまでいたる悩みすら「空」だと説いています。 


つまり、「これらの悩みにすらとらわれてはいけない!!」と説いているのです。


では、どうしたら悩みにとらわれずに生きていけるのでしょうか?悩みはどのように解決すれば良いのでしょうか?




お釈迦様は 自分が無くなる時に 教えを残しています。 


それが 自灯明 ・ 法灯明です



自灯明は自らを拠り所にすること

法灯明は教えを拠り所にすることです。





絵葉書には




法灯明

法【真実の教え】を灯火とし 拠り所とする

教えのかなめは 心を修めることにある 心は人を仏にし、また畜生にする。 迷って鬼となり、 さとって仏と成る





と、紹介させていただいています。




「教え」とはお釈迦様の教えであります。

そしてこの「教え」はどこか遠い所にあるわけではありません。


絵葉書にある大般若の法要は仏教の教えを体感する行事とも言われています。


お寺で行われるどんな行事・法要にも仏教の教えが生き生きと流れています。





これらの法要に参加し共にお参りすることで自分自身の心が光り輝くと共に、お地蔵様に手を合わせていたその姿が、女性の真っ暗な心の中を一筋の光で照らすように誰かを救っているのです。

絵葉書法話 32【三昧】


640写経会 絵葉書 32 三昧

絵葉書【32】三昧





まだ幼い娘と山を登っているときのことです。


娘は初めて歩く道にビクビクしながら、鳥の声が聞こえればキョロキョロ、風で葉っぱが揺れる音が聞こえればキョロキョロしていました。


なかなか前に進みません。



やがて、ビクビクはワクワクに変わります。


少し歩いては足を止めてドングリを拾い、少し歩いては葉っぱを拾い・・・


やはりなかなか前に進みません。




しかし歩き続け山の頂上が近づいてくるとキョロキョロすることや何かを拾うことを止めて、まっすぐに道の先だけを見るようになっていました。




こうなると、目標としていた山頂にたどり着くことは難しいことではありません。







心を静めて一つの対象に集中し  心を散らさず 乱さぬ状態 を三昧【ざんまい・さんまい】と言います。




仏教語辞典の三昧の部分には


“悟りに至るには三昧が前提とされる”


という一文もあるくらい、心を静めて一つの対象に集中することを大切にしています。







子供が山の頂上を目指して歩き出すが、なかなかゴールできない姿は

様々な迷いや欲望に振り回されて、前向きに進むことに集中できていない私達の姿に似ているような気がします。






山道を歩く子供が最初のうちは怖がったり気を散らして前に進みません。それでも歩き続けると、やがて歩くことに集中します。

歩行三昧です。

同じように私達が迷いや欲望に振り回されて前に進むことができないときも、正しいことを少しでも続けていれば、やがて大きく前進することができるのではないでしょうか。


絵葉書法話33 【放下著】

600写経会 絵葉書 33 放下著


捨て去った姿は力強い




木の葉は光合成をして作り出した栄養分を木の幹に送るだけでなく、最後は自分自身をも分解した栄養分も幹に送り散っていく。だからこそ葉が落ちた木々は、あっという間に葉を生い茂るための底知れぬ力を秘めた力強い姿にも見える。
絵葉書【33】放下著










葉っぱが枯れ、木から落ちていく瞬間を「死」と例えることがあります。


葉っぱは枯れるまで、光りを受けて必要な養分を作り出す「光合成」を行っています。


光 + 水 → エネルギー(養分) + 二酸化炭素


ここで生み出されたエネルギー(養分)は葉っぱの成長のためだけでなく木の幹に運ばれ、木全体の成長にも使われます。


さらに葉は枯れていく段階で自分自身をも分解し、その栄養分すら木に送り込み散っていくのです。


葉っぱ自身が作った養分を「母」や「御先祖様」とも言える「木」に返すのです。






禅の言葉に 放下著【ほうげじゃく】という言葉があります。



煩悩妄想だけでなく 仏や悟りまでも捨て去り すべての執着を捨て去る


ことを説く言葉です。





一生懸命に何かに打ち込んだとしても、そこで得たものにこだわってはいけないと言うのです。


写真は東光寺本堂の前の冬の菩提樹です。


春から秋にかけて生い茂った葉は全て落ちています。


この葉のない菩提樹の状態を見て「さみしい」と感じるかもしれません。


しかし見かたを変えれば、直前まで生き抜いた葉が作り出した養分を蓄え、春になり新芽が噴き出し、あっという間に葉を生い茂るための底知れぬ力を秘めた力強い姿にも見えます。


私も自分が一生懸命取り組んできたものを「捨てなさい」と言われると「もったいない」と感じてしまいます・・・


しかし、捨て去らなくてはいけないのです。


木も葉がもったいないとため込んでしまったら、新しい葉が生えてくることができず十分な光合成を行うことができません。捨て去るからこそ新たな力を得て前に進むことができるのです。


同様に、煩悩だけでなく自分が積んだと感じている功徳を捨て去ることができたとき、全ての葉を失ってもあっという間に葉を生い茂るための底知れぬ力を秘めたような力強い生き方を見出すことができるのではないでしょうか。

絵葉書法話34 【無所得】

600写経会 絵葉書 34 無所得 空手にして来たり





空手にして、この世に来り、空手にして又帰る


私たちはもともと何も持たずにこの世に生まれ、そして生きる御縁が尽きれば何も持たずにあの世に帰っていく

絵葉書【34】無所得









しゃぼん玉が割れると中の空気は外の空気と一体となります。


しゃぼん玉の薄い膜によって中と外に区切られていましたが、膜が無くなれば外も中も関係ありません。


中の空気の方が尊い、外の空気の方が新鮮・・・

そんなことはありません。


中の空気も外の空気もまったく同じものなのです。





私達の“いのち”も同じです。


仏教では私達の“いのち”はそれぞれが単独で存在するのではなく、全てが繋がっていると説いています。


その大きな“いのち”を様々な言葉で表現をしますが、その中に「大いなるいのち」という言い方もあります。


私達は自分の“いのち”だと思っているものは大いなるいのちから飛び出した1滴の水のようなもので、やがては元の場所に戻っていきます。




これはしゃぼん玉の中の空気と同じではないでしょうか。


縁があってしゃぼん玉の中に入ったが、やがては元の場所に戻っていくのです。




まさに、

私たちはもともと何も持たずにこの世に生まれ、そして生きる御縁が尽きれば何も持たずにあの世に帰っていくことを表す


吾等もとより 空手にして、この世に来り、空手にして又帰る


の世界です。




はかなく割れるしゃぼん玉は「私達は何も持たずに生まれ、何も持たずに帰ってく。自分のものなど、何一つない。」と語り掛けます。


しかし、だからといって自分から膜を壊して割れるしゃぼん玉などありません。


その姿から、御縁に身を任せながらも精一杯にいのちを生かしきることの大切さを私達は学ばなくてはいけないのです。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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