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本質を成長させる 【過去の不二に学ぶ 第63号】



世間の人たちから疑問や悩みの答えを求められたときに、きちんと返答のできるよう自分の見識を高めていくことが、益々必要な時代となってきたと思います。





岐阜県 禅昌寺 住職 幽松室 鈴木宗孝老師の言葉です。




600不二 63号H0811012





臨済宗青年僧の会の機関紙「不二【ふに】」で示された言葉です。



臨済宗青年僧の会(臨青)は昭和55年1月に「青年僧よ立ち上がれ、歩め」をスローガンに掲げ発足した全国組織です。この臨青の機関紙が「不二(ふに)」です。


私は現在、臨済宗青年僧の会 ホームページを担当させていただいています・・・
※ホームページはこちらです。






不二63号(平成8年11月)は、岐阜県 禅昌寺 住職 幽松室 鈴木宗孝老師へのインタビュー記事が紹介されています。

先ほどの言葉は、インタビューの中で話してくださったものです。


この言葉の後には





お寺の運営もありましょうし、子弟の教育ということもあるでしょうが、出家という姿勢を志として、心の中に持ち続けなくてはならないのではないでしょうか。亭主であり、父親なのですが、本質的なものは和尚は和尚でなくてはならないということです。




とあります。





600不二 63号H081101





立場によって生き方を変えるのではなく、本質的に自分自身を高めていくことの大切さを説いてくださっているように感じます。

 



全文はこちらです。興味のある方は是非ご覧ください。

捨てる と 生かしきる その6 【徹底的な基礎基本】


これまで 捨てること と 生かしきること についていくつかの記事を書かせていただきました。

捨てる と 生かしきる その1 【鉄拳の話し】
捨てる と 生かしきる その2 【亡くなった方を生かしきる】
捨てる と 生かしきる その3 【落ちている木の棒】
捨てる と 生かしきる その4 【備え付けの家具】
捨てる と 生かしきる その5 【合掌の心】



興味のある方は是非御一読ください。
 





今回は 「正岡子規の俳句ができるまで」話です。





600子規記念博物館1811

先日、大変有難い御縁をいただき正岡子規の「子規記念博物館」へ行くことができました。






正岡子規は日本を代表する俳人です。

俳句や短歌など多方面で創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人です。

正岡子規は多くの句を残していますし、その味わい深い句を多くの先輩方(和尚様方)が仏教の教えを伝える際に引用をしています。






その影響で、私も正岡子規の句を勉強したいと感じるようになりました。






仏教では物事を「良いが悪い」、「価値がある、ない」、「正しい、間違っている」など2つに分けることを分別【ふんべつ】といって嫌います。

私は勝手に、多くの和尚様方に句が引用させる正岡子規は分別とは無縁の方で、多くのことを勉強して素晴らしい句を残してくださったと思っていました。






しかし、子規記念博物館を見ていたときに驚きの言葉を目にしました。




 子規は、自分が俳句に熱心になったのは「俳句分類」の作業だったと語っています。

 子規が「俳句分類」に着手したのは明治22年ごろのことでした。室町時代から江戸時代にかけての古俳句を季語、事物、形式によって分類したもので、およそ10年間にわたって続けられ、積み重ねられた原稿は背の高さをこえるほどでした。

  よい俳句を作り出すための見識を養い、俳句革新の大事業をなしとげるための大切な基盤となりました。







と書いてあったのです。


徹底的に分類という作業を繰り返すことで大切な基盤を子規は作ったのです。




「仏教で分別を嫌う」と聞くと私のような未熟者は、「分別をしてはいけない!」と思い込んでしまいます。

さらに、自分自身の経験やこれまでに「分別」をしてきたこと、「分類」をしてきたことまで否定してしまいそうになります。

過去の自分を捨てようとしてしまうのです。




しかし、正岡子規はそうではなかったのです。



俳句分類という過去を捨てることなく 生かしきったからこそ、多くの僧侶が感動し引用するほどに仏教の教えに通じる句(言葉)を残すことができたのだと思います。




「過去を捨てるのではなく、生かしきる」ことの大切さと、生かしきるための多くの努力をしていかなければならないことを子規記念博物館で感じることができました。

捨てる と 生かしきる その5 【合掌の心】


これまで 捨てること と 生かしきること についていくつかの記事を書かせていただきました。



捨てる と 生かしきる その1 【鉄拳の話し】
捨てる と 生かしきる その2 【亡くなった方を生かしきる】
捨てる と 生かしきる その3 【落ちている木の棒】
捨てる と 生かしきる その4 【備え付けの家具】



興味のある方は是非御一読ください。







800写経会 絵葉書作成ファイル 65


合掌の心の表す言葉に



 右仏 左衆生と 拝む手の 中ぞゆかしき 南無の一声



というものがあります。



 手を合わせると、すでに頂いて私達の中にある仏の心と一つになり、敬いの心である「南無」という気持ちが自然に湧いてくるものです。



という意味です。




右仏 左凡夫  【みぎほとけ ひだりぼんぷ】



と書かれていることもありますが、どちらにしても




右手が仏 左手が煩悩や迷いがある私達を表しており、これを合わせることの大切さを教えてくれています。






この言葉を聞いて




右手は尊い仏様、左手は煩悩があるからダメな手だ。よし、左手を切り落としてしまえ!!




とはなりません。







どちらかだけを大切にするのではない。

どちらかだけを排除するのでも無い。

右手も左手もお互いが支えあう合掌の姿こそが尊いのです。





この合掌の姿そのものが、すべてを生かしきる姿なのだと思います。

捨てる と 生かしきる その4 【備え付けの家具】

640臨済録181121


臨済録 

三界は今説法を聴いている君たちの心を離れては存在しないのだ。君たちの一念の貪りの心が欲界であり、君たちの一念の嗔りの心が色界であり、君たちの一念の愚痴の心が無色界である。これらは君たちの家にそなえ付けの家具である。



※三界とは私達の心にある欲望のことです。





君たちは三界がどんな処か知りたいか。それは今説法を聴いている君たちの心を離れては存在しないのだ。これらは君たちの家のそなえ付けの家具である。








東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗、禅宗のお寺ですので禅の教えをとても大切にしています。



その禅の教えを学ぶ際に必ず目にすることになるのが臨済録【りんざいろく】という書物です。



臨済宗の最初の和尚様は、臨済義玄禅師【りんざいぎげん ぜんじ】です。臨済禅師は約1200年前の中国の僧侶であり、お釈迦様より数えて38代目の和尚様です。



臨済禅師は御弟子様達を大変厳しく指導されました。その臨済禅師の教えを弟子が編集したものが臨済宗では最も大切な語録とも言われる臨済録です。







その中に先ほどの一文があります。




私達の欲望は私達の心から出てくる。

それは、備え付けの家具のようなものだ。




というのです。




 私達が普段生活をしている家を思い出してみれば、掃除をしようと思って備え付けの家具を捨てようとする人はいません。ちりやほこりは掃除しますが、押入れを解体してしまってはまともに生活することはできません。

 私達の心も同じなのです。心を調えようと思ったとき、良い心と悪い心に分類し悪い心を捨てようとしてします。しかし、備え付けの家具を捨てることができないように、悪い心だけを捨てることなどできないのです。





ある和尚様も著書の中で


私たちは、たしかにどろどろの真っ黒な煩悩(心身を悩ませる無数の精神作用)を持っていますが、その中にも、人間を人間たらしめる純粋な人間性が埋(うず)みこめられているのです。


と説かれています。





これらの教えに触れたとき

捨てること と 生かしきること の違いと難しさを痛感しましたが、生かしきることを目指してみたいとも感じました。

捨てる と 生かしきる その2 【亡くなった方を生かしきる】

ゴミはゴミ箱に捨てます。


多くの人が実践しています。



しかし、亡くなった家族の遺体をゴミ箱に捨てることはありません。



葬儀を行い、法事と呼ばれる供養を続けます。








なぜでしょうか。



それは、人が亡くなってもゴミになるわけではないことを私達が知っているからです。



大切に供養すること、つまり亡くなった方のことを想い続けることが亡くなった方を「捨てる」のではなく「生かしきる」ことなのだと私達は自然と感じているのです。



だからこそ、葬儀を行い、法事と呼ばれる供養を続けます。







500大震災を忘れない




以前、【東日本大震災を忘れない 被災体験を聞く会】で、おばあちゃんと一緒に避難したが、おばあちゃんを見失い、後日おばあちゃんが遺体で発見された当時中学生だった女性の話しを聞きました。




女性は



あの出来事は本当に悲しいことであり、今でも優しかったおばあちゃんの声を思い出し涙が出ます。


しかし、だからといってあの出来事が無かった方が良かったとは思わなくなりました。


それよりも今は私が経験をしたことを少しでも多くの方に知ってもらい、地震があれば津波がくることや、本当に必要がない限り車で避難しないこと、自分の命をまず守ること、今となっては当たり前のことでも当時の私は知らなかった。知らない人が今もいるならば私は伝えていきたい。


伝えながら私がしっかりと生きている姿をおばあちゃんに見せたい。







とおっしゃっていました。




この女性の現在姿こそが おばあちゃんへの想い「捨てる」ことなく「生かしきる」姿です。



おばあちゃんのいのちを「捨てる」のではなく「受け継ぎ、生かしきる」姿だと感じました。


人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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