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心が静かになると 音が聞こえなくなる? その2

500避難訓練180817


東光寺(静岡市清水区横砂)の境内にある袖師保育園では、毎月避難訓練が行われています。



火災、地震、不審者などに対応するための訓練です。



この避難訓練、園児だけでなく職員にも日時を伝えない抜き打ちの場合もあります。



私も事務の仕事をしていると突然非常ベルが鳴り、訓練が始まると驚きます。



しかし、何回も聞いているうちに突然の非常ベルにも驚かなくなってきたようにも感じていました。



ところが、園児達は毎回必死です。



ベルがなれば驚き、先生の指示をしっかりと聞いて動くことができています。



走るべきところは走り、静かにするときには静かにする。



何度やっても真剣に取り組みます。





この光景を見るたびに先日紹介した、興味深い実験結果を思い出します。



坐禅を科学的に検証する実験です。


※詳しくはこちらの記事(心が静かになると 音が聞こえなくなる?)もご覧ください。



その実験は、私のような未熟な僧侶と坐禅を極めた老師【ろうし】と呼ばれる僧侶に脳波を調べる機械をつけて坐禅をしてもらったそうです。


そして、坐禅中に一定の間隔で鐘の音を鳴らします。


すると、未熟な僧侶は坐禅をしていると鐘の音に初めは反応しているものの段々に鐘の音に脳が反応しなくなったそうです。


しかし、老師はいつまでも脳が初めて鐘の音を聞いたときと同じように反応し続けたそうです。






私達は仏様のような尊い心をいただいて生まれてくると仏教では説いています。



その心が素直に表に出ている姿こそ老師と呼ばれる和尚様がありのままに鐘の音に反応する姿であり、保育園の園児が何度も非常ベルに反応し新鮮な気持ちで訓練を受けている姿なのだと思います。



園児が真剣に訓練する姿を見るたびに、何回も聞いているうちに突然の非常ベルにも驚かなくなってきたように感じてしまう私の姿は、尊い心が曇って見えなくなってしまっている姿なのだと反省しています・・・・

心が静かになると 音が聞こえなくなる? その1

500坐禅体験180402






坐禅して、何も聞こえないというわけではありません。

白山の小池老師は90歳くらいまで毎朝2時間も坐禅をしていましたが、終わると今日は鳥が鳴いていた、ウグイスがきていた、鳥がやかましかったとよく言われていた。

はじめは老師は無心になっていないのかな、などと思ったものですが、ありのままに聞こえるのです。逆に心になにかひっかかることでもあると、何も聞こえなかったりします。思い悩んで道を歩いていては、まわりの景色もなにも目に入ってきません。





円覚寺派管長 横田南嶺老師の著書「祈りの延命十句観音経」の言葉です。




以前、興味深い実験結果を聞いたことを思い出しました。



坐禅を科学的に検証する実験です。



その実験は、私のような未熟な僧侶と坐禅を極めた老師【ろうし】と呼ばれる僧侶に脳波を調べる機械をつけて坐禅をしてもらったそうです。



そして、坐禅中に一定の間隔で鐘の音を鳴らします。



すると、未熟な僧侶は坐禅をしていると鐘の音に初めは反応しているものの段々に鐘の音に脳が反応しなくなったそうです。



しかし、老師はいつまでも脳が初めて鐘の音を聞いたときと同じように反応し続けたそうです。





鳥の声が聞こえること、鐘の音に反応し続けることを「ありのままに見る」と言うのだと思います。




東光寺で現在「子供坐禅会」を開催していますが、


私は坐禅中に雨が降てくれば気がつきますが、いつの間にか雨が降っていること、雨の音が聞こえなくなっています。



・・・未熟者の代表として、これからも坐禅を続けていかなければならないと感じる毎日です。

写経会のときに どんな話しをしているの? その57


東光寺(静岡市清水区横砂)で行われている写経会で、副住職(新米和尚)の法話と配布させていただいている絵葉書を紹介させていただきます。


※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。

※写経会の御案内はこちらをご覧ください。


 
500写経会 絵葉書作成ファイル 57 観世音



 今回は第57回目です。 


延命十句観音経というお経があります。


その名の通り、10の句からなる非常に短いお経です。


この短い延命十句観音経というお経は



観世音【かんぜおん】という1句から始まります。




観世音【かんぜおん】 とは


観世音菩薩【かんぜおんぼさつ】を省略し短くしたもので、慈悲や救済を特色とした菩薩です。


つまり観音様【かんのんさま】と同じ意味があるのです。







「観音様とは、誰かを助けたいと感じたあなたの心」


と言われるように、決して遠くにいらっしゃるものではありません。


自分自身の心こそ観音様だと感じることが大切なのです。



このことを少しでも分かりやすい言葉で表現しようと絵葉書を作りました。



写真は東光寺の墓地を見守ってくださる観音様であり、この観音様に


あなたの中に観音様


という言葉を添えさせていただきました。






・人々の苦悩を救いたいと 願う心がほとけ様の心

・あなたも観音様

・観音様とは、誰かを助けたいと 感じたあなたの心

・人々を 救いたいと 願う心が 観音様

・あなたの中の観音様





添える言葉を様々書き出し 悩みましたが・・・



誰の心の中にも観音様のような素晴らしい心があることを


あなたの中に観音様


という言葉が表現をしてくれているように感じ、今回の絵葉書が完成しました。

被災体験と 無事是貴人【ぶじ これ きにん】


500大震災を忘れない


「東日本大震災を忘れない 被災体験を聞く会」で御自身の被災体験を話された女性の話しを忘れることができません。



この会では3人の被災者、そして津波避難の研究について話をしてくださる方の話しを聞くことができました。



御自身のつらい体験を人前で話すことは、大変なことだったと思います。



しかし、私は話を聞かせていただくことで多くのことを学び、これからどのように生きていくべきなのかを教えていただいたように感じます。





その中でも特に「おばあちゃんと一緒に避難したが、おばあちゃんを見失い後日おばあちゃんが遺体で発見された方」の話しが印象に残っています。




その方は、当時中学生。


自宅で過ごしているときに地震が発生したそうです。


地震が発生し驚いていていると、あちらこちらから「避難しろ」「津波がくる!」との声が聞こえてきます。自宅にいた祖母、母、妹と車で避難をしました。しかし、車は渋滞で動きません。そこへ容赦なく津波は襲ってきたのです。


避難の最中におばあちゃんとはぐれてしまいましたが、避難所に行けば会えると信じていました。


しかし、おばあちゃんは遺体となって発見されました。


あの時、おばあちゃんを助けられなかったのか、なぜ無理をしてでも引っ張っていかなかったのか、車で避難しなければ助かったかもしれない、様々な感情が彼女を襲います。周囲の人が「あなたは悪くない」「おばあちゃんだってあなたが助かって喜んでいる」とどんなに励まし慰めてくれても、気持ちが晴れることはありませんでした。





しかし、震災から7年が経った今、様々な経験をした彼女ははっきりと言うのです。


「あの出来事は本当に悲しいことであり、今でも優しかったおばあちゃんの声を思い出し涙が出ます。

しかし、だからといってあの出来事が無かった方が良かったとは思わなくなりました。

それよりも今は私が経験をしたことを少しでも多くの方に知ってもらい、地震があれば津波がくることや、本当に必要がない限り車で避難しないこと、自分の命をまず守ること、今となっては当たり前のことでも当時の私は知らなかった。知らない人が今もいるならば私は伝えていきたい。伝えながら私がしっかりと生きている姿をおばあちゃんに見せたい」



と。




私達は普段、「無事」という言葉を「何事も無い」という意味で使っています。震災に関しても当然被害に遭いたくないと考えますし、被害に遭わないことを「無事に過ごす」と表現します。


地震や津波が無い方が良いのは誰もが感じます。


普段の生活の中でも「嫌な出来事」が無い方が良いと誰もが感じます。しかし、私達は様々な「嫌な出来事」を日々体験しています。




禅の言葉に無事是貴人【ぶじ これ きにん】という言葉があります。




無事という言葉は日常的に使われる言葉で、日頃は「変わりがないこと」や「健康であること」、「平穏に過ごしている」といった意味で使われています。



しかし、禅では、無事 は 仏や悟りを外や他に求めない心の状態を言い 「一切の作為を離れた自然なあり方」 や 「こだわりのない生き方」 を意味しています。



そして、貴人 は 「悟れる人」 つまり 「自分自身に備わっている 尊い心 に気が付いた人」 を意味します。



ですから無事是貴人 は「こだわりのない生き方をする人こそが、悟れる人である」という意味になってまいります。





昭和の禅僧、山田無文老師は著書の中で無事是貴人を



「馬鹿は馬鹿のままで、真っ正直に飾り気なしに、自分の欠点を丸出しにして生きていくやつが、無事是貴人だ。」



と説いています。



大好きだったおばあちゃんを津波によって奪われた中学生の女の子は、時間をかけ、多くの人に支えられ、多くのことを経験し、


「無かった方が良かったとは思わなくなりました」


と言ったのです。






そう話す女性を見て、心が調い、つらい体験を自分のものとして受け止めた姿を見たように私は感じました。




そして、この姿こそが「真っ正直に飾り気なしに、自分の欠点を丸出しにして生きていく姿」であり、無事是貴人なのだと感じました。

窓ふきと修行


500ガラス 洗剤



先日、何人かの人でガラスの掃除をしようとしたとき、


ある人はガラス用の洗剤を用意し、


ある人は乾いた雑巾を、


ある人は水拭き雑巾とからぶき雑巾、


ある人は濡れた新聞紙を用意しました。



同じ窓掃除なのに道具がみんな違います。



結果としては汚れ具合などによって、そのとき そのときで差はありますが、どれでもきれいになりました。






仏教では私達の心を鏡に例えることが多くあり、本来はこの鏡はありのままに全てのものを映すことができるのです。


しかし、日常の生活を送る中でどうしても鏡は汚れてきてしまいます。


鏡をきれいにするためには掃除が必要です。


心をきれいにするにも、心の掃除が必要です。


心の掃除に必要なのが「修行」です。


修行には様々な種類があります。


坐禅、読経、作務、食事・・・


窓の掃除をするのに様々な方法があります。


洗剤、雑巾、新聞紙・・・


どれでも窓がきれいになったように、


様々な修行があっても、どの修行でもしっかりと取り組むことで心の掃除をすることができるのです。






東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗妙心寺派のお寺です。


臨済宗とは「禅」の教えを大切にする宗派であり、坐禅をとても大切にしています。


東光寺でも坐禅会を開催し一般の方にも禅の教えを体験していただいています。


※坐禅会(毎月開催)についてこちらをご覧ください。
※子供坐禅会(長期休暇に開催)についてはこちらをご覧ください。




しかし、禅宗だからといって“坐禅だけ”をしているわけではありません。


お経を唱えることも修行です。


掃除など作務【さむ】と呼ばれる作業も修行です。


食事も修行です。




このようなことを話すと


「では、どの修行が一番良いのですか」


と聞かれることがあります。しかし、どれが一番良いのかなど答えることはできません。




窓の掃除に何が有効かあれこれ話し合っても窓はきれいになりません。


どれが一番良い修行なのかと、あれこれ考えている時間よりも一歩を踏み出して様々なことを体験してみることが一番良いように感じます。


これから夏が始まります。東光寺だけでなく様々なお寺で多くの行事が営まれます。


自分から一歩を踏み出して、多くのことを体験してみてはいかがでしょうか・・・
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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