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寺嫁まめこのひとこと通信 VOL.8

 結婚するまで(結婚後もしばらく)お寺で生活をしたことがなかった妻が、実際にお寺で体験し学んだことを伝えるために不定期で檀信徒の皆様に発行している「お便り」である、寺嫁まめこのひとこと通信 がいろいろあって、改装されました。




今回の題名は



~お母さんの罪と、お盆の意味。~




です。



500まめこのひとこと通信8 20190708


※写真をクリックすると、大きな図で表示されます。
※PDFファイルでご覧いただける環境の方はこちらをクリックしてください。



 東光寺(静岡市清水区横砂)では少しでもお寺のことや仏教のことを多く方に知っていただきたいと、


東光寺ホームページ

・ブログ(新米和尚の仏教とお寺紹介寺嫁がみつけたゴキゲンの種)、

・お便り、本山関係の冊子、

・法話




など様々な方法で紹介をさせていただいています。





その中の1つに寺嫁まめこのひとこと通信があります。 




発行依頼、東光寺から配布されるものの中で最も「楽しみにしています」と言われるのが、この「寺嫁まめこのひとこと通信」です。
※過去の「寺嫁まめこのひとこと通信」はこちらでご覧になれます。




御興味のある方はぜひ御一読ください。

写経会のときに どんな話しをしているの? その71 【後半】


写経会のときに どんな話しをしているの? その71の後半です。

※前半の記事はこちらです。


500こまめ 縁側でお茶を飲むこまめ カラー




且座喫茶【しゃざきっさ】

厳しく緊張感のある問答が続き、最後に「且坐喫茶 まあ、しばらくお茶でも飲んでいきなされ」と、くる・・・・
厳しい修行・厳しい問答にだけ頼ることなく、毎日やっている平凡なことにも大切なことがあることを伝えてくれているのです。




 私はこの問答に出会ったとき、この問答が何を伝えてくれているのか理解することが正直できませんでした。しかし、ある科学者の言葉に触れたとき この問答が伝えようとしてくれていることを感じた気がしました。



それは、1940年代に原子炉の中で、ウランの連鎖反応を制御しておこなわせるという実験を初めて成功したエンリコ・フェルミという科学者の言葉です。


科学者の名言が納められた本の中でも、特にフェルミの言葉は異彩を放っています。フェルミの名言として有名な言葉は



「腹がへった。昼食を食べに行こう」



なのです。





ウランの連鎖反応とはいわゆる核反応です。凄まじい力を生み出す反応であり、今でもこの力を制御し続けることは大変です。それを人間が初めて自分達の意志で行ったのがフェルミです。

その実験が行われたとき、万一、制御が失敗し、核反応が暴走した場合にそなえて、原子炉のてっぺんには、消火用の溶液を満たしたバケツをもった三人の決死隊員が立っていたほどです。この時の様子が文章となって残されているので紹介します。






制御棒をずつ引き上げる命令と、計測器のカチカチという音。レコーダーのペンがかすかな音をたてて炉内の反応レベルを示す。息づまる緊張。いよいよ連鎖反応のはじまる時間が近くなった。突然、静けさを破るフェルミの声。

「腹がへった。昼食を食べに行こう」


昼食時間になっていたのだ。ほかのだれも空腹を感ずる余裕はなかった。午後2時実験再開。3時25分、フェルミの計算通り、史上初の連鎖反応がはじまり、28分間続いた。







とあるのです。







数百年前の科学の世界では1人の天才的な能力を持った科学者が単独で実験を行うことが一般的でしたが、この頃になると大きな実験は優秀な科学者が集まって意見と技術を出し合って実験を成功に導いていきます。


フェルミの実験も、1人で行ったものではなく多くの優秀な科学者と共に実験を行っています。フェルミ以外の優秀な科学者達はお腹が空いたことを忘れて実験に集中していたが、フェルミだけはお腹が空いた自分に気がつける状態だったからこそ「腹がへった。昼食を食べに行こう」という言葉が出たのでしょう。



昼食の時間を忘れて命がけで実験に取り組んでいた科学者たちだけでも実験は成功したかもしれません。しかし、目の前のことに集中しすぎて自分自身や周囲のことが見えていないことをフェルミが「お腹が空いた」という言葉で伝えたからこそ、全員が自分自身のお腹のことまではっきりと感じることができる心のゆとりを持ち実験を成功に導いたのだと私は思っています。






 私達は何かを成し遂げよう、達成しようとすると、目標に向かって努力をします。しかし、時には集中しすぎるがゆえに、取捨選択をしてしまし、迷いの世界に入り込んでしまし身動きが取れなくなってしまいます。



そのときは、「且座喫茶」という言葉を思い出し、厳しく緊張感のある世界だけでなく毎日やっている平凡なことに真実を見ていくことができることを感じるきっかけにしていただき、さらに臨済宗妙心寺派の生活信条



 一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう



を思い起こしていただければ幸いです。


写経会のときに どんな話しをしているの? その71 【前半】


且坐喫茶【しゃざきっさ】



500写経会 絵葉書作成ファイル 71 禅語 且坐喫茶



東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗のお寺です。




臨済宗の最初の和尚様である臨済義玄禅師は約1200年前に唐(現在の中国)の僧侶です。



臨済禅師は御弟子様達を大変厳しく指導され、その臨済禅師の教えを弟子が編集したものが臨済宗では最も大切な語録とも言われる臨済録です。



この臨済録の中に「且坐喫茶」という言葉が出てくる問答があります。その問答はどういうものかと言いますと、







臨済禅師がまだ若かった頃の話しです。臨済禅師は、平【ひょう】和尚にお目にかかりました。すると平和尚が、


「君はどこからやってきたのか」


と質問いたしました。当時は、偉い和尚のうわさを聞くと、その和尚に面会して、その和尚から仏法の真実を学びとろうという意欲をもって諸国を行脚している修行僧がおり、修行僧がくると、必ずといっていいほどこのように問い掛けます。

このころの臨済禅師はすでに師匠の黄檗和尚のもとで充分に修行を積んでいました。ですから、この質問の本当の意味を理解し



「黄檗山からやってきました」


と答えます。黄檗山にいる希運禅師のもとで、私は修行してまいりましたと答えたのです。すると平和尚が、



「君は黄檗希運禅師のもとで修行していたのか。黄檗和尚は日ごろ君たちにどういうことを教えているか」



と訊ねます。そこで臨済禅師が、



「金の牛が溶鉱炉に落ち込んで、そのまま溶けて、跡形もなくなってしまった。」



と答えたのです。金の牛は黄檗の仏法に喩えているのです。黄檗の仏法は、黄金でできた牛のように、まことに素晴らしいものです。ところが、その素晴らしい仏法が一夜で溶けてしまって、跡形すらも留めない。これは、黄檗の仏法はすべて私のものになってしまいましたと伝えたのです。すると、平和尚が、




「金風、玉管吹ふく、那箇是知音 【きんぷう ぎょくかんをふく なこか これ ちいん】」




金風は秋風を意味しており。秋風が玉でできた笛を吹いている。素晴らしい音色がする。しかし、その素晴らしい音色を誰が聞き分けてくれるであろうか。

と言うのです。つまり、臨済禅師が黄檗の素晴らしい教えを全てものにしたと答えたことに対して、その素晴らしい教えを聞き分けることができる人が果しているのだろうかと、さらに問いかけたのです。
これに対して臨済禅師は



金風はいくつも重なった関を突き破って青空まで届く。しかし、そのスカッとした青空のところにも私は腰を据えてはいませんよ。あなたは黄檗の仏法を素晴らしいといいましたけれども、私はそんなところにもとどまってはおりません。こういう心境に私はいますが、和尚はその私をどうごらんになりますか。




と答えます。そこで平和尚、




「お前、えらい勢いじゃのう。そう気張るばかりが能じゃないぞ、もう少しおとなしくならんか。」



こういうと、臨済禅師は



「いや、おとなしいというところにも腰を据えてはおりません」



と答えています。そこで最後に、平和尚が。



「且坐喫茶 まあ、しばらくお茶でも飲んでいきなされ」



と言ったという問答です。厳しく緊張感のある問答が続き、最後に「且坐喫茶 まあ、しばらくお茶でも飲んでいきなされ」と、くるのです。





禅の教えは、特別な難しい教えや言葉だけを大切にしてきたのではなく、日常生活の中の具体的な事柄に真実を見つけます。

道を歩くこと、おしゃべりをすること、ご飯を食べること、食器を洗うこと、お茶を飲むこと・・・・

何でもない、毎日やっている平凡なことに禅の真実を見、仏法を見ていくことを大切にしています。

且座喫茶は、厳しい修行・厳しい問答にだけ頼ることなく、毎日やっている平凡なことにも大切なことがあることを伝えてくれているのです。




長くなりますので、続きは後半へ・・・

咲いた花を素直に楽しむことの大切さ


東光寺(静岡市清水区横砂)の境内にアジサイの花が咲いています。




500アジサイ1906212



先日、このアジサイの花が咲いていることに気がつきました。



500アジサイ190621






思わず、「あ、きれいだなぁ」と感じると同時に


「カタツムリはいないなぁ」とか


「このアジサイを利用して、観音山をもっと人が集まる山にしたい・・・」



などと考えていました。






禅の言葉に

詠花吟月【えいか ぎんげつ】

という言葉があります。




花を詠じ 月に吟ず 【はなを えいじ つきに ぎんず】



と読みます。





直訳すれば


花を見たり月を眺めて詩歌を口ずさむ。


ということになります。



あらゆる四季の風物を愛で、その中に溶け込んで ともに楽しむさま。



と、いった意味があります。





アジサイの花を見たときに


「カタツムリはいないなぁ」

「このアジサイを利用して、観音山をもっと人が集まる山にしたい・・・」


と言った発想は、素直な心ではありません。




「あ、きれいだなぁ」



と素直に感じ 思わず声に出てしまった姿が 詠花吟月 なのかもしれません。

昔話に学ぶこと 【わらしべ長者】

わらしべ長者という昔話があります。

最近になり初めてあらすじを知りました。私はこれまでわらしべ長者の話しは



500右足出して歩くこまめ

1人の貧乏人が最初に持っていたワラを物々交換していき、最後には大金持ちになる話。



500旗もってゴールこまめ

と思っていました。





ですから、“夢のあるおとぎ話”と思っていました。






・・・しかし


わらしべ長者の冒頭部分を知って驚きました。冒頭部分は



昔、ある1人の貧乏な男がいた。

毎日真面目に働いても暮らしが良くならないので、観音様に願をかけたところ、

「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」とのお告げをもらった。

男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本のワラに手が触れたので、そのワラを手に取った。





と、あったのです!!





そして、この貧乏な男は持っていたワラやその後交換したものも、欲しいと言ってきた人に迷うことなく渡し、その代わりになるものを差し出されれば迷うことなく受け取っていくのです。





冒頭部分を読んだ後、あらすじを思い出してみると“わらしべ長者”の話しは、仏教・禅の教えを伝えてくれていることに気がつきました。






仏教・禅では「こだわらない」ことを大切にします。


しかし、私達は普段の生活の中で取捨選択をします。


自分の都合の良いものを選んで手に入れ、必要ないものと判断したものを捨てていきます。






しかし、仏教・禅ではこの分別や取捨選択を嫌います。


こだわりのない心で 全てのことを受け止めることで私達は自分の命を生かしきることができると説くのです。




「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい!」と言われた直後に偶然ゴミ(ワラ)を触ってしまったら・・・


私なら「こんなものはいらないから触っていないことにしよう。」「これは触ったのではなく手に当たったんだ」など理由をつけて“初めに触ったもの”をでっちあげてしまうことでしょう。




結果は明白です。


こだわりのない心でワラを手にすることができた貧乏人は幸せに、

こだわりの心で、取捨選択をしている私は いつまでも変わることなく迷いの世界をウロウロすることになるのです。





自分で判断し行動することは、普段の生活では非常に大切なことです。しかし、全てがそのような場面ではなく、ときには、こだわりの心を捨てて身を任せて生きていくことも大切だと感じます。


これからは、わらしべ長者のような昔話の奥深さを味わっていけるように 様々な昔話の内容を今一度確認して行きたいと考えています。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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