施餓鬼で食事をいただく覚悟!! その1

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夏になると「施餓鬼【せがき】」と言う言葉を耳にする人もいるのではないでしょうか。



 この施餓鬼と食事の関係について書こうと考えたのですが、いっぺんに書くと文字数が増えすぎてしまうので3回にわけて書こうと考えています。




本日はその1回目【施餓鬼の由来】です。 




先日、久しぶりに会った大学時代の友人6人の中に「施餓鬼」という言葉を知っている人はいませんでした。



彼らは何も特別な生活を送っているわけではありません。


日本でごくごく一般的な生活をしている人たちです。


お寺や宗教に対して嫌悪感を持っていることもありません。


どちらかと言えば、何かあれば仏式の葬儀をします。お寺で写経や坐禅もします。



でも施餓鬼という言葉を聞いたことがありませんでした。



しかし、この友人達が特殊なのかといえば決してそのようなことはありません。施餓鬼の知名度や参加率はかなり低いのではないでしょうか・・・・




子供に施餓鬼を説明するとすれば




施餓鬼と言うのは「はい、どーぞ。」の気持ちで みんなの心も自分の心もきれいにする行事だよ




と私は説明をします。




この「施餓鬼」は漢字を見ていただきますと分かりやすいと思いますが、餓鬼に施す【ほどこす】と書いてあります。



餓鬼とは満足をすることを知らず、貪り続ける状態のことを言います。



餓鬼とはどこか遠くにいる特別な妖怪ではありません。欲望に振り回される私たちの心の中にもいるのです。



餓鬼に洗米と言って洗ったお米やお水をお供えし供養することで、水一滴・お米一粒でも満足することができるはずの自分の心を見つめ直す法要が施餓鬼なのです。



さて、先ほどから施すと言っていますが、「施」という字は見返りを求めない気持ちも表していますので、見返りを求めず水やお米をお供えするのが施餓鬼という法要の大切な部分なのです。





施餓鬼の由来を少し詳しく説明させていただきます。



施餓鬼の由来は『救苦焔口餓鬼陀羅尼経 ぐくえんくがきだらにきょう』に説かれています。



 お釈迦様の十大弟子の一人阿難尊者がある日、一人静かに坐禅をして修行をしていました。すると、口から火を吹く鬼が現れ「お前は三日以内に死ぬだろう。そして餓鬼道におちて苦しむだろう」と言って消えていってしまったそうです。


突然鬼が見え、しかも「餓鬼道」に落ちると言われて阿難尊者は悩みます。


そこで、お釈迦様に相談しました。


するとお釈迦様は「多くの餓鬼や僧侶に食べ物や水などを供え供養すれば救われる」と言われたのです。



そして、その通りにしたところ阿難尊者は救われたというお話に由来しています。



ですから、今でも施餓鬼には海の物と山の物のお供えをし、水をかけ、お米を供えます。


また先祖のためだけでなく三界萬霊の位牌をたて、『有縁無縁三界萬霊』とすべての霊に供養するとなっています。


自分たちの親・先祖の為だけに供養しているのではなく、それ以外の苦しんでいる餓鬼道の人々にも供養していることが重要なのです。


(続きは次回・・・)

冷暖自知

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東光寺は静岡市清水区にあります。



以前は「清水市」と呼ばれていました。



そんな、地元の有名な行事に「巴川の灯ろう流し」があります。



地元の有名な行事なのですが、これまで様々な理由をつけて行ったことがありませんでした。



しかし、今回初めて灯ろう流しに行ってきました。



聞くのと見るのではここまで違いがあることに驚きました。



感じたこと、勉強になったことがたくさんありました。




先日、「白隠禅師250年遠諱 ゆかりの地を訪ねて」が開催されました。



この巡拝は、白隠禅師の足跡を辿りながら生誕地・ゆかりの地を巡拝し、その遺徳を偲ぶべく企画されたものです。



その際、会長挨拶で、



“「冷暖自知」と言われる通り、実際に自らの五感で白隠禅師の生き様と向き合うことは、書籍などで得た知識では及ばないものがあろうと思います。それぞれに白隠禅師の胸の鼓動を観じとっていただき、実りある研修会にできればと祈念申し上げます。”



との言葉をいただきました。





 禅語に



 冷暖自知 【れいだんじち】




 という言葉があり、




水の冷暖は水を呑んで初めて自ら知ることができる。悟りは他からの説明によるものではなく、自得すべきものである。




 という意味があります。知識での理解を超えた実体験の重要性を説いた言葉です。




今回の灯ろう流しも知識とは知っていました。



しかし実体験がありませんでした。



体験をすることで、様々な出会いがありました。




出会いとは出て会うこと!!に間違いはないことも学ぶことができました。


心はどこにあるのか??

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「心」はどこにあるのでしょうか!?



「ひざが痛い」と言いながらひざを触る人は珍しくありません。



「ひじが痛い」と言いながらひじを触る人は珍しくありません。



「お腹が痛い」と言いながらお腹を触る人は珍しくありません。



では、「心が痛い」と発言した人は胸を押さえる方が多いと感じます。



では「心」は胸や心臓にあるのでしょうか?




「心」は私達の脳が考え出しているのだから脳に心があるという人もいます。





禅の言葉(禅語)に




門より入るもの、家珍に非ず 【 もんより いるもの かちんに あらず 】




という言葉があります。家珍【かちい】とは宝物のことですので、




外から入ってくる、もらったものは、わが家の宝ではない




と言う意味です。



お金や財宝、名誉や地位などは全て門の外から家の中に入ってきます。残念ながらお金や財宝は家宝や自分自身の支えとはならないのです。



私達は本当に大切なもの、宝物はすでにいただいているのですよ。それこそが「心」なのですよ!!




と伝えてくださっている言葉です。




私は、初めて外から入ってくる、もらったものは、わが家の宝ではない言葉を聞いたとき




「え、心は私の中にあるんでしょ?


だったら、私が門から出入りするなら心も出入りでくるじゃん!!


そうしたら、心も宝じゃなくなるじゃん!!!


この言葉、なんだかすっきりしない!!!!」





と思ったのです・・・・



後々、間違いに気がつきました。



この間違った認識は「心」はそれぞれの個人個人の中だけにあり、他人の心と心は独立したものだという誤解、そして「心」は常に体の中にある、つまり体より小さいという誤解が原因でした。




「心」というものは、そんなちっぽけなものではありません。「私の心」、「あなたの心」そんな区別すらない、とんでもなく大きなものなのです。



そして、全ては密接なつながりを持っているのです。




もちろん門とも比較などできない大きなものなのです。





「心」の大きさを知ったとき



門より入るもの、家珍に非ず 【 もんより いるもの かちんに あらず 】




外から入ってくる、もらったものは、わが家の宝ではない 心こそが宝物である
という言葉の意味を少しは理解できた気がしました。

仏教は優しくもあり、厳しくもある




私は、誰もが生まれたときから仏様のような尊い心をいただいていることを示す



「 生本来仏なり : しゅじょう ほんらい ほとけなり 」



という温かい言葉に導かれ僧侶になったと思っています。






しかし、仏教の教えは温かいだけではありません。厳しくも感じることがあります。





仏教聖典の中に、こんなお話が紹介されていました。




500仏教豆知識シール 171


お金持ちの女主人は謙虚で親切だと評判であった。


その評判が本物か試すために使用人がわざと失礼なことをした。



初めはわざと半日遅刻した。



女主人は機嫌を悪くしながら注意をした。



そこで使用人は次の日に、わざと遅刻した。



しかもこの日は前日よりもさらに遅刻をした。





すると女主人は怒り、使用人を棒で打った。



このことが知れ渡り女主人はそれまでの良い評判を失った




というお話です。




どんなときでも 静かな心と 良い行いが大切であることを伝えてくださるお話だと感じました。




仏教聖典にはこのお話の最後に次のような一文が残されていました。




自分が置かれている環境が恵まれているときに、善い行いをしてもそれはまことに良い人とは言えない。衣食住にゆとりがないときにこそ、静かな心を持ち、良い行いをしなくては行けない。





かなり厳しい言葉ではあります。



この厳しい教えを実践するからこそ



衆生本来仏なり



という言葉の本当の意味を体感することができるのかもしれないと思いながら、まずは どんな時でも心を調えていくことを実践していこうと改めて感じました・・・

大発見は終着駅ではない

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駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠




と、江戸時代に富士山と同じように尊敬された白隠禅師は




大悟十八度、小悟数知らず




と言う言葉を残されています。




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大きな悟りを18回、小さな悟りは数えきれないくらいしたことを示す言葉です。




仏教では「悟り」をとても大切にします。




私のような未熟者は1回も悟ることはできていませんが、悟りこそがゴールだと思い込んでいました。そのため、白隠禅師の




大悟十八度、小悟数知らず




に、かなり驚きました。





そして、先日JJトムソンの言葉を知り、さらに驚きました。




JJトムソンは理系の教科書には必ずと言いていいほど登場する電子を発見したとされている有名人です。




今でこそ、小学生でも当たり前だと考えている




原子は原子核と電子でできている




と、考えた方です。




その、JJトムソンが




大発見というものは けっして終着駅ではありません
それは、今まで知られていなかった区域へ導いていく、大通りなのです






とい言葉を残しています。





当時、誰も知らなかった電子の存在を発見した後に残した言葉です。




私でしたら、誰も知らないことを発見しただけで満足し、ゴールに達した気分になり、さらなる成長はできていなかったはずです・・・





現状に満足することなく努力を積み重ねることの大切はを




白隠禅師はそのことを「大悟十八度、小悟数知らず」と表現し、




トムソンは「大発見というものは けっして終着駅ではありません」





と表現されているように感じます。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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