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昔話シリーズ その11 亀の甲羅

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)で行われてみんなの坐禅会(子供坐禅会)で私が話した内容をまとめたものです。



600【昔話】11


昔話シリーズ【11】 亀の甲羅




私は、この話を幼少期に聞いた記憶はありません。


自分の子供へ読み聞かせをするときに出会った話です。



話しは以下の通りです。


亀の甲羅がツルツルだった頃の話しです。(もちろん想像の世界です)

亀は空を飛んでみたくて鳥に

「ボクも鳥さんみたいに空を飛びたいな」

と話しました。すると鳥は仲間の鳥と協力をして亀を飛ばしてくれることになりました。

鳥は亀に

 「そこにある棒をしっかりくわえて下さい。どんなことがあっても、決してしゃべってはいけませんよ。しゃべれば地べたに落ちますよ」

と言いました。亀は喜んで棒を加えると、鳥たちもその棒を加えて空へ飛んだのです。

亀は空を飛べて大興奮。喜びの声を出したいのですが我慢をしていました。


そのとき、亀が鳥と空を飛んでいることに気がついた近くで遊んでいた子供が

「亀が空を飛んでいるなんておかしい!!」

と言ったのです。

亀は思わず

「おかしくないぞ!!」

と声を出してしまったのです。

すると亀は棒から離れて、地面に落ちてしまったこと。

 それから、亀の甲羅には、あっちこっちひびが入っているそうです。
 



というお話です。



単純に、亀が我慢することができなかったから甲羅が割れちゃったというものではないと思います。


亀はなぜ落ちてしまったのでしょうか。


それは周囲の声に惑わされてしまったからです。


私はこの話に出てくる鳥は仏様、亀は私達を表しているように感じます。


鳥の力を借りて空を飛ぶ姿は、私達が仏様の教えと共に悟りの空へと上がっていく様子を表していて、周囲の声に惑わされてしまい地面に落ちる亀の姿は、坐禅などに一生懸命取り組んでいたのに、「あれ、今頃他の友達はまだ寝ていたり遊んだりしているのに私は何をしているのだろう。」と他のことを考えて集中しきれず迷い苦しむ私達の姿を示しているように感じます。



亀は周囲の声に惑わされなければ空を自由自在に飛び回れたように、私達も坐禅をするときには坐禅だけに集中し、お経を読むときにはお経にだけ集中する。


そうやって、今、自分の目の前にあることに懸命に取り組むことの大切さをこのお話は教えてくれているのではないでしょうか。



600昔話シリーズ11 豆知識シール

昔話シリーズ その10 キツネが笑う

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)で行われてみんなの坐禅会(子供坐禅会)で私が話した内容をまとめたものです。



600【昔話】10



昔話シリーズ【10】 キツネが笑う



調べてみると、今回紹介をする「キツネが笑う」とよく似た話しは複数ありました。


しかし、今回は我が家にあった娘の誕生祝に当時の同僚にもらった本に掲載されていた「キツネが笑う」を紹介させていただきます。





話しは以下の通りです。

ある日、居酒屋さんにお酒を飲みたいと思ったキツネが武士に化けてやってきます。

「おーい、酒だ!」

武士に化けたキツネが言ったので店の主人が見ると、武士なのに尻尾があったり、キツネの耳が見えていたりとお粗末な化け方です。

そこで主人は桶に水を入れて武士の座っている机の上に置きました。

武士に化けたキツネは桶の中を見て驚きます。

うまく化けたはずなのに耳が出ていて自分がキツネだとバレバレです。

キツネは慌てて店を飛び出して山へ帰っていきました。


翌日、店の主人が山を歩いている

「昨日は面白かったね、ウフフ、ウフフ」

と、キツネの笑い声が聞こえてきました。





という話しです。


私はこの話を聞いたときに、主人が何も言わずに水の入った桶を差し出す場面が印象に残りました。


仏教では私達の心を水面に例えることがよくあります。


嫌なことうや辛いことがあって心が乱れている状態を揺れる水面に例え、


坐禅をしたりお参りをしたり、お経を唱えたりすることで心が落ち着いた状態になることを、波のない水面に例えます。



主人が置いた桶の水も、置いた直後は波があったことでしょう。しかし、その波が無くなって水面が調ったとき、キツネの今の姿が映し出されたのです。キツネはその姿に驚きました。


これは、坐禅などをして自分の心が調うことで、自分自身の姿を見ることができたときの様子を表してくれているように感じます。



また、仏教の世界では、坐禅などふとしたことがきっかけで悟りを得た(大切なことに気がつく)という話しがよく出てきます。その中には悟ったときに「声をあげて笑った」という逸話も残っています。


桶の中の水面が調うことで、自分自身の姿を見て、面白かったと笑うキツネの姿は



坐禅などの修行をすることで心が調い、自分自身の本来の姿を見て、思わず声をあげて笑う禅僧の姿を表現しているようにも感じます。



キツネが桶の水面を見て本当の自分の姿が映っていることに気が付いたのと同じように、私達も心を波のない水面のように調えることで本当の自分が見つめていきたいものです。


600昔話シリーズ10 豆知識シール

昔話シリーズ その9 猫のおかみさん

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)で行われてみんなの坐禅会(子供坐禅会)で私が話した内容をまとめたものです。



600【昔話】9


昔話シリーズ【9】 猫のおかみさん




昔話に出てくる「猫」と言うと「化け猫」を思い出す方もいるかもしれません。


しかし、今回の話しは違います。


相手のことを思いやる猫が登場する話です。




話しは以下の通りです。






昔、ある所に貧しいが働き者の農家の男が1人で暮らしていました。

畑の仕事を終えて家に帰ると、家の前にお腹を空かした一匹の猫がいました。

男は猫がかわいそうになり、貧しいのですが自分の食事を分けてあげました。

猫は大変に喜び、男はそのお腹を空かした猫をかわいそうだと感じ、飼うことにしました。

ある日、男が畑に行く前に猫に向かって

「あ~あ、俺がいない間にお前が石臼を使って仕事を手伝ってくれればなぁ。」

と言ったのです。
 
男がその日も畑での作業終えて帰宅すると誰もいない家の中からゴロゴロと音がします。なんと猫が一生懸命に石臼を使って仕事をしていたのです。

男は大変に喜び、猫と益々仲良くなりました。


そんなある日、猫が男にしゃべりかけました。

「私は人間の姿になれば、もっとお手伝いできることが増えてきます。どうか、私にお伊勢参りをさせてください。」

と頼み、必要なものを準備してもらい、お伊勢参りに行ったのです。

しばらくすると、なんと猫は人間の女性になって帰ってきました。

人間になった猫はこれまで以上に男の為に働き、男は猫の為に働くようになりました。




という話しです。




この話の大切なところは、猫が姿を変えて恩返しをするところだと私は思います。

相手のことを想う姿は仏の心を表しており、

猫が人間になって幸せに 生きていく姿は、私達も様々な姿に変わることができ、仏にもなることができることを教えてくれているように感じます。





600昔話シリーズ9 豆知識シール

昔話シリーズ その8 宝の下駄

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)で行われてみんなの坐禅会(子供坐禅会)で私が話した内容をまとめたものです。


600【昔話】8



昔話シリーズ【8】 宝の下駄






お寺に来た方に


「お寺には3つの宝物があります。なんだと思いますか。」


と訊ねると、ほとんどの方がキョロキョロと本堂内を見渡します。


しかし、私が


「仏法僧(ぶっぽうそう)といって、仏様(仏)・仏様の教え(法)・仏様の教えを大切にする仲間(僧)です。」


と言うと、笑ったりがっかりしたりします。


宝の下駄もそんな話かもしれません。







話しは以下の通りです。




昔、ある村に貧乏な男の子と病気の母親がいました。

ある年の年末、もうすぐ正月なのに、男の子の家には一粒の米もありませんでした。

そこで、親戚のおじさんの家にお金を借りに行きましたが、権三(ごんぞう)おじさんはお金を貸してくれませんでした。

男の子がおじさん家から帰っていると、変な仙人が空から降りてきて、「履いて転べば、背が縮むかわりに小判が一枚出る」という、不思議な一本歯の下駄をくれたのです。

男の子は三回転んで小判を三枚出し、母親の薬と正月の餅を買いました。

しばらくするとこの噂を聞いた権三おじさんがやってきて、宝の下駄を強引に借りていきました。

欲張りな権三おじさんは、大きな風呂敷の上で何度も何度も転び、沢山の小判を出しましたが、自分の身長も小さく縮んでいる事に気が付かず、とうとう小さな虫になってしまいました。







という話しです。


本当に大切な宝は自分の中にあるのに、そのことに気がつかなければ自分の身を滅ぼしてしまうのです。


欲望に身を任せてお金を手に入れても、大切なものを失ってしまうことを教えてくれています。




お経の中にも

偸盗(ちゅうとう)するなかれ。

吾等(われら)もとより空手(くうしゅ)にして、この世に来り、空手にして又帰る。

一紙半銭たりと雖(いえど)も、元来吾等に所有なし。

わずかに可得の見あらば、すなわち盗むと示されぬ。

一切の財宝おしみなく、あまねく衆生に布施すべし。

いかでか盗むに忍びんや。




とあります。


現在の言葉にすると
 

盗んではいけません。

私たちはもともと何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。

たとえ一枚の紙、わずかなお金でさえも、もとは自分の持ち物ではなかったはずです。

少しでも自分のものにできると思うなら、それは盗みにつながります。

むしろ持っているものを惜しみなく、みんなに分けてあげましょう。

あげたものを、どうして盗む必要があるでしょうか。


となります。


「これは自分のものだと思ったら、それは泥棒だと思え」と書いてあるのです。


男の子は手に入れたお金を自分のためではなく母親のために使いました。


これは「持っているものを惜しみなく、みんなに分けてあげましょう。」を実践していたのです。


そんな尊い姿があることを宝の下駄という話しは教えてくれているように感じます。



600昔話シリーズ8 豆知識シール

昔話シリーズ その7 天狗の隠れ蓑

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)で行われてみんなの坐禅会(子供坐禅会)で私が話した内容をまとめたものです。




昔話シリーズ【7】 天狗の隠れ蓑 (てんぐの かくれみの)


600【昔話】7



個人的には有名な話だと思っていましたが、子供坐禅会で

「この話しは有名なので知っていますよね!?」

と言ったところ、参加者の目が点になっていて驚きました。

20人以上の参加者がいましたが、誰もこの話を知らなかったのです!!



ですから、今回もしっかりとお話を紹介させていただきます。



話しは以下の通りです。




ある所に、彦一(ひこいち)と言う、子供がいました。

彦一は天狗が持っている蓑をかぶると、かぶった人の姿が見えなくという話しを聞いて、天狗の隠れ蓑が欲しいと思っています。
※蓑と言うのは昔の雨合羽のような物です。

そこで彦一は竹の棒を持って天狗がいる山へ行きました。

そして、

「やあ、こいつはええながめだ。大阪や京都が、手に取るように見える!」

 と言いながら竹を望遠鏡のようにのぞいていると、天狗がうらやましくなって彦一の前に出てきて

「その竹と隠れ蓑を少しの間だけ交換しよう」

と言ったのです。

「うーん、それじゃ、ちょっとだけだぞ」

と言って隠れ蓑を受け取るとすばやく隠れみのを身につけ姿を消しました。

隠れみのに身を包んだ彦一は、さっそく町へ出て自分の姿が見えていないか試しました。

どうやら誰にも見えていないようなので安心して家に帰り、蓑をしまって寝ました。

しかし、次の朝になると隠れ蓑は無くなっていました。

お母さんがあまりに汚い蓑だったのでかまどで燃やしてしまったのです。

彦一はがっかりしながら灰をかき集めてみると、灰のついた手の指が見えなくなりました。

そこで裸になって灰を体中にぬってみると透明になりました。

彦一は喜んで町へ出かけました。

透明になった彦一は色々ないたずらをして楽しんでいました。そんなとき、喉が渇いたので水を飲むと唇のまわりの灰が取れて唇だけが見えてしまったのです。

町の人は「唇のお化けだ」と驚きながらも、追いかけてきます。

彦一は思わず逃げ出しますが、走れば走るほど汗が出てきて灰を流してしまいます。

とうとう灰が全部流れて彦一の姿が丸見えになってしまいました。

町の人達に捕まって怒られた彦一は反省をして町の人達にイタズラしたことを謝りました。





というお話しです。





嘘をついて手に入れても良いことは何もないということを教えてくれています。


しかし、それだけではありません。


私はこの話を読んだときに


隠れ蓑を失い、裸になる彦一の姿は、余分な地位や肩書などに縛られずに生きていくことの大切さを教えてくれているように感じました。


私達は普段の生活の中でついつい自分を守るために嘘をつきます。


また、自分を守るために地位や肩書を手に入れ活用します。


これは服を着るようなものだと思います。


私達は自分の弱い部分を隠すために様々な服を着ます。


たくさん服を着れば、なんだか安心をしてしまいます。


しかし、仏教ではこれを脱ぎ捨てることが大切だと説いています。


坐禅も何かを得るためにしているのではなく、何かを捨てることが大切だと説いています。


彦一は服を脱ぎ捨て灰を体に塗りました。


もしも服に灰を塗っていた、灰が取れてもただの服を着た少年に戻るだけで町の中に逃げ込めたかもしれません。そうすると彼は「ごめんなさい」という一言が言えなかったかもしれません。


しかし、いったん裸になることで、灰が取れても目立つ存在であり町の人に捕まることできたのです。だからこそ、しっかりと謝ってもう一度まっとうな人生を歩み直すことができたのです。


私達も、彦一のように心の着せた洋服を脱ぎ捨て生まれたときから頂いている尊い心のままに生きていれば失敗をしたり悪いことをしてしまったときに「ごめんなさい」と大切な言葉を素直に出すことができます。


心の洋服を脱ぎ捨てる方法には様々な方法がありますが、そのひとつが坐禅だと言うことを覚えて置いていただければ嬉しいです。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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