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枝豆が・・・ 雑草の処理をしないと枝豆がまずくなる話


600枝豆200729


中学校の教員時代に授業の一環で花壇を使って枝豆を数年間栽培しました。
美味しくできました。

昨年、プランターで枝豆を栽培しました。
美味しかったです。

今年、畑で枝豆を栽培しました。
実がふっくらとしてきたので、試しに数本を収穫して食べて見ました。
・・・信じられないほど美味しくありませんでした!!

個人的な感想ですが噛めば噛むほど「カメムシの臭い」が口の中に広がるのです・・・・

数日後に、収穫したものも同じ味です・・・






原因を調べてみると、納得できる情報がどんどん出てきます。


原因はずばりカメムシでした。


カメムシは枝豆の実に細い口を突き刺して中のものを吸うそうで、刺された枝豆には変な味が残るそうです。


確かに、収穫したときにカメムシはたくさんいました・・・


では、なぜカメムシが発生したのでしょうか?


原因は枝豆を栽培していた場所周辺の雑草のようです。


カメムシたちは大量の雑草に守られてのんびりと過ごしていたようです。


畝(うね)という栽培をしていた場所にはマルチという雑草が生えてかないようにする黒いビニールを張ってあったので雑草が生えることはありません。


しかし、その周囲は雑草だらけです。


雑草には気がついていましたが、「枝豆はマルチがあるから大丈夫!」と油断していました。


この油断と私が楽をしたことで枝豆が不味くなってしまい反省してもしきれません・・・






仏教では私達が持つ煩悩を雑草に例えます。


畑の雑草は処理をしないと周辺の農作物を傷つける原因になります。


同じように心の雑草もしっかりと処理をしないと、やがて迷いや苦しみを生み出し、自分だけでなく周囲に影響を及ぼし始めます。


煩悩という心の雑草が“私”だけでなく周囲の人に影響を与えることを、信じられないほど不味い枝豆を食べて実感しています。




自分の為に、周囲の為に、全てのために自分の心を調えましょう!

“なる”のか“かえる”のか

500191216 秋葉山4




小説家の三秋縋【みあき すがる】さんが

別に子供に戻りたいわけではなくて、ただ、夜中に外出するだけで街が遊園地みたいに見えたり、年の瀬を迎えるたびに卒業式みたいに切なくなったり、隣町のちっぽけな商店街が異国のように思えたり、席替えで気になる子と隣になっただけで世界一幸せになれたりした、あの感受性が羨ましいだけなんです。



と発言されていました。





この言葉は、江戸時代の禅僧である仙厓義梵【せんがいぎぼん】禅師の


坐禅して 人は仏に なるという

われは仏の 子にかへるなり



と同じことを伝えているように感じます。





仏教では仏になることを成仏【じょうぶつ】と言います。


しかし、“なる”のではなく“かえる”と言うことも多くあります。


仏教では、生まれたときから仏様のような尊い心をいただいていると説いています。


ですから、その心にかえっていく必要があるのです。


その心こそが、どんなことにも全力で取り組むみ、全力で多くのことを感じることができる感受性豊かな心だと感じています・・・

脱け殻を見て声に気がつく

600草刈り200720


畑の草刈りをしてきました。

だいぶ長くなった草を目の前にして気持ちが折れてしまいそうになりましたが、相棒の草刈り機とともに作業を続けました。

作業も終盤を迎えたころ、草にセミの抜け殻がくっついているのが見えました。



600セミの抜け殻200720




「あ、セミの季節になったんだ」


と感じた瞬間にセミの声が聞こえてきたのです。


セミはそれまでも鳴いていたのです。


私がそれを感じることが出来ていなかったのです。






白隠禅師坐禅和讃というお経の最後に


当所即ち蓮華国【とうしょ すなわち れんげこく】


という部分があります。これは


今現在の自分が置かれている場所が、自分にとって最高の所


という意味があります。




何かに気がつくことで、今まで何とも思っていなかったこの場所が尊い場所だったと気がつくことの大切さを教えてくれている一節です。



脱け殻を見て声に気がつくことも、当所即ち蓮華国を実感する小さな小さな一歩なのかもしれません。

科学と仏教 その3 科学の実験と「坐禅は捨てる」という考え方の共通点 

私は科学と仏教(宗教)には


「科学が進歩することで、宗教(古くからの信仰や習慣も含む)を科学的に説明できるようになってきた。」


という関係性があると考えています。

※詳しくはこちらの記事をご覧ください
科学と仏教 その1 科学が仏教を説明できるのか 
科学と仏教 その2 バタフライ効果と仏教の教え 


500蝶とさなぎとゴミ箱1



 坐禅は「心のゴミ捨て場」です。何かを求めて行うものではありません。坐禅をいくら組んでも、何ら得るものはないのです。それでは、なぜ坐禅をするのか。それは「捨てる」ために他なりません。心の中にある色々なものを捨てた先に、私たちが生まれながらに持っている「幸せな心」があるのです。





東京都世田谷にある龍雲寺住職 細川師の言葉です。



言葉の通り、心の中にある様々なものを捨てることで大切なものを見つめ直すことができます。







科学の実験も「捨てる」ことが大切です。


私は光化学の研究室に所属していた3年間、毎日のように実験をしていました。


実験は「捨てる」の連続です。


実験と言うと、いろいろなものを混ぜて変化を観察する印象があるかもしれません。


もちろん、その通りなのですが“ただ混ぜる”わけではありません。


実験に必要でないものを徹底的に捨てていきます。


不純物が入る可能性があるものもどんどん捨てます。




実験結果に影響を与える可能性がある、温度変化や光量の変化も捨てます。



捨てて捨てて、捨てきることで、自分達が観測したい現象だけを見つめることができるのです。


これは、坐禅をすることで心の中にある色々なものを捨てたからこそ「幸せな心」も見つけることができることによく似ているように感じます。


捨てて捨てて捨てきることで 物事の本質を見つめようとする姿に、科学と仏教の違いなどないと感じています。

バタフライ効果と仏教の教え 科学と仏教 その2

600花と蝶々


私は科学と仏教(宗教)には


「科学が進歩することで、宗教(古くからの信仰や習慣も含む)を科学的に説明できるようになってきた。」


という関係性があると考えています。

※詳しくはこちらの記事をご覧ください






表現方法は様々ですが、科学の世界には「バタフライ効果」という言葉があります。



ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こす。

今日の北京で1匹の蝶が空気をかき混ぜれば、翌月のニューヨークの嵐が一変する。




など、バタフライ効果は、状態にわずかな変化を与えると、その後状態が大きく変化するという現象です。





仏教の教えに、


いかなる存在も不変の本質を有しないことを意味する諸法無我【しょほうむが】という教えがあります。


本質を有していないと言うと 「何もない」や「空っぽ」と受け取られてしまうかもしれません。


しかし、諸法無我は決して「空っぽ」と言った意味ではありません。


不変のものが無いと言っているのです。


変わらないものが何もない・・・


つまり、周囲の影響があって存在していることを表す言葉なのです。



「この世に存在するすべてのものは、他との関りを持ちながら成り立つ」ことを意味しています。



バタフライ効果は科学的に存在が証明されていますし、諸法無我を科学的に説明しているように私は感じます。



科学と仏教(宗教)を比較して、どちらが優れているかを競う必要はありません。



これまで受け継がれてきた仏教の教えを、科学という視点からも見つめることができるということは、大変ありがたいことだと感じています。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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