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思わず足を止める

600胡蝶蘭20201022



東光寺(静岡市清水区横砂)の境内に保育園があります。

先日、この保育園の事務室の前に胡蝶蘭が飾られました。

地元企業が赤い羽根共同募金に寄付した胡蝶蘭が、縁あって保育園に届いたのです。


私が胡蝶蘭を運んでいると、驚くほど立派な花に事務室の前を通る保育士さんは思わず足を止めて「わ~、すごい!」と声を出して見とれていました。




臨済宗妙心寺派の本山である妙心寺のホームページに


禅とは心の別名です。
~中略(妙心寺ホームページはこちらです)
禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。




と表現されています。


一般的には「禅」と聞くと「何事にも動じない」と考える方も多いのではないでしょうか。


私もその1人でした。


「心頭を滅却すれば火もまた涼し」


という言葉も有名で、「坐禅をすれば暑さ寒さを感じなくなる。」と考える方もいます。




しかし、「禅」とは「自由自在な心」と表現されているように「感じない心」ではないのです。





臨済宗円覚寺派の管長であられる横田南嶺老師は著書“人生を照らす禅の言葉”の中で玄沙師備禅師【げんしゃしび ぜんし】という中国唐代の禅僧の逸話を紹介されています。




ある時に、師の雪峰から、諸方を行脚してくるように勧められる。四度も勧められて、ようやく旅に出た。旅に出かけて間もなく、道の石ころにけつまずいて、忽然と大悟した。

~中略~

玄沙は石にけつまずいて開悟した。思わず「痛い」と叫ぶ。それはいのちある確かな証拠である。川のせせらぎを聞くものは何か。

いのちあればこそ聞いている。

そのいのちはどこから来たのか。

計り知れない無限のいのちを今ここにいただいて生きて いる。

その事を実体験すること が禅の修行にほかならぬ。





忙しい仕事の最中でも、ふと美しい花を見たときに思わず足を止めて「きれい」と感じることができる心も「自由自在の心」であり、そのように感じることができる状態に心を調えておくことが大切だと胡蝶蘭と胡蝶蘭を楽しむ皆様に教えていただきました。

禅 と 禅語

600【葬儀】引導法語2



「日本と日本語は違うものです。」


と言われて


「いやいや、同じでしょ!」


と言う人は多くないと思います。


「富士山は日本の心です」


と紹介しても、問題は少ないと思います。


しかし


「日本の心は富士山だけです」


と言うとおかしなことになってしまいます。


「日本には富士山以外にも山はあるし、平野もある、湖も、そして広大な海もあるじゃないか!」


と言われてしまいます。


「日本」を説明しようとすると、たくさんの言葉が必要となり、ときには回りくどい言い回しも必要になってきます。





時々ですが


「禅宗のお坊さんは なんでも短く端的に話すことができるんでしょ。余分な言葉を使わなくても言いたいことを相手に伝えることができるでしょ。」


と言う方がいます。そのような方は


「だって禅語って短いじゃん。短い言葉の中に全てが入っているんでしょ。禅語だけ話せばいいじゃん!」


という発想のようです。しかし、残念ながらこれは誤解です。


確かに多くの禅語は短い言葉で、多くのことを伝えてくれています。


禅語を辞書で調べれば「禅宗独特の言葉・術語」と出てきますが、禅の教えを伝え続けた松原泰道和尚様は著書の中で禅語のことを


人間を超える遙かに深いところから起こる声なき声が、人間のことばとなって、はじめて背骨にひびき、その背骨の曲がりをたたき直すのです。禅語とは、そういうものです。


と表現されています。文字の長さに関わらず、その深い教えを伝えてくれているのが禅語なのです。


では、「禅」とは何でしょう。


臨済宗妙心寺派の本山である妙心寺のホームページに


禅とは

禅とは心の別名です。
~中略(妙心寺ホームページはこちらです)~
禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。



と紹介されています。




では、「心とは何でしょうか?」


と聞かれれば答えは人それぞれ違ってくるでしょう。


説明をしようと思えばたくさんの言葉が必要ですし、回りくどい説明も必要になります。


だからこそ、「法話【ほうわ】」があるのです。


禅の教えを知ってもらうために、禅語とその意味だけを伝えただけでは不十分なのです。


様々な禅語や体験、そして文字を使って話しをするのが法話です。


私達は1つの禅語を聞いて、世の中のすべてのことが分かる尊い心を誰もが持っていると説いてはいますが、実際にそのようなことができる人ばかりではありません。


もちろん、私にはできません・・・


しかし、多くの和尚様方の法話を聞き、日常の中に修行を取り入れることで、おぼろげながら禅の心を知ることができるようになってきました。


ぜひ、多くの方に禅の教えに触れていただきながら、日常の中にその教えを取り入れていただきたいと思っています。

調えることの大切さを学ぶ

640草刈り機の刃に学ぶ調えるタイミング

私は畑や山の雑草を刈り取るのに草刈り機を使っています。





先日、草刈り機の切れ味が悪くなってきたので、刃を新しくしました。

刃を新しくして、作業を再開すると・・・

驚きました!!!

ものすごくスパスパ切れるのです!!!

「こんなに簡単に切れるのか!!!」

思わず声が出てしまいました。





640草刈り機の刃に学ぶ調えるタイミング2
これが古い刃。



640草刈り機の刃に学ぶ調えるタイミング5
こちらが新しい刃。





640草刈り機の刃に学ぶ調えるタイミング4

実は草刈り機の刃には「チップ」がついており、これの力を使って草を切っています。


ところが、使用し続けたり、刃が石にぶつかったりすると、徐々に「チップ」がすり減ったり、取れたりしてしまいます。






640草刈り機の刃に学ぶ調えるタイミング3
比べれば一目瞭然


これでは切れません。


むしろ、よくここまで使っていたと驚くほど「チップ」がありません。


もちろん、突然「チップ」が全て取れてしまうことはありません。


徐々に徐々に無くなっていくのです。


ですから、いつから調子が悪いのかははっきりと言えないのです。





徐々に調子が悪くなっていくからそこ、私は刃を変えるタイミングを見失い、どうしようもなくなって初めて刃を変えているのです・・・



これは、私達のような人間にも同じことが言えるのではないでしょうか。


徐々に心の調子が悪くなっているときに、悪くなっていることには気がつきにくいものです。


どうしようもなくなって、初めて自分の調子が悪いことに気がつく場合もあります。


草刈り機の刃は取り換えることができますが、人間の心はそういうわけにはいきません。


調子が悪くなりきった心を調えることは簡単ではありません。


しかし、心を調える坐禅という方法があります。


刃は取り換えて切れ味が新品同様に戻った草刈り機を見て、


坐禅を続けることで心を調えて、生まれたときから持っている純粋で美しい心に戻っていくことの大切さを思い出した気がします。

愚痴りたいときほど 感謝の言葉

640写経会 絵葉書 28 ありがとう




お葬式では親族が故人に対して「お別れの言葉」を贈る場面があります。


先日、中学生が亡くなった祖父のお葬式でお別れの言葉を贈る場面に立ち会う機会がありました。


祭壇前に立つ中学生はしっかりと焼香をして合掌礼拝を終えるとポケットから原稿を取り出しました。


事前に書いたお別れの言葉を読み上げる中学生の言葉に耳を傾けていると、祖父にかけてもらった言葉や、みせてもらった生き方に対する感謝の言葉が次々と出てきます。


この中学生はお葬式の始まりに献花(お花をお供えする儀式)も、自分よりも小さい子供達の面倒を見ながら立派に務めてくれていたので「立派な中学生だなぁ」と私は感じていました。


ところが、突然お別れの言葉を読み上げることができなくなったのです。


感極まって言葉が出てこなくなり、押し殺しても出てきてしまう泣き声だけが本堂に響きました。


もちろん、多くの参列者が涙を流し、誰もが中学生を温かく見守りました。


しばらくすると中学生は、涙を流しながら、声を振り絞って最後までお別れの言葉を贈りました。




席に戻った後もしばらく声をあげて泣く中学生の姿は忘れることができません。






この姿を見たときに「愚痴りたいときほど 感謝の言葉を声に出することの大切さ」を痛感しました。



大好きだった祖父の葬儀前、そして葬儀中も表情を崩さなかった中学生が、声を出して自分が書いた手紙を読み上げたことで涙を止めることができなくなったのです。


祖父を無くした悲しみは常にあり、葬儀前や手紙を書いているときにも祖父のことを考えたでしょう。


葬儀が始まってからも考えたことでしょう。


しかし声を上げて涙を流すことはありませんでした。


声を出すことによって、祖父とのお別れを知らず知らずのうちに実感されたのだと思います。






なにか嫌なことがあったときには、愚痴を言うのではなく「ありがとう」といった前向きな言葉を発することで気持ちを調えることができるということは東洋や西洋など関係なく言い伝えられています。


ちなみに、「ありがとう」 という言葉は仏教の言葉です。



 法句経(お釈迦様の教えを記したとても古いお経)の182に



 人の生(しょう)を

 受くるは難(かた)く

 やがて死すべきものの

 いま生命(いのち)あるは有難(ありがた)し






とあります。 この言葉は



今、ここに自分の「命」があることを実感することの大切さを説く言葉であります。



「命」が誕生することは 大変に難しいこと
  ↓
命が有ることは難しい
  ↓
有ることが難しい
  ↓
有り難う
  ↓
ありがとう







となるのです。



つまり「ありがとう」という言葉は、今ここに命がある事に感謝する言葉なのです。


嫌なことがあったときには愚痴が出てしまいます。


私も、愚痴を垂れ流してしまうことが少なくありません。


死んだ場合、愚痴を言うことはできません。


今生きているから愚痴が言えるのに、生きていることに感謝できていないことはもったいないことです。


しかも、言葉に出すことによって今を生きている自分の命に、愚痴の内容を実感させてしまいます。


それよりも、辛い出来事があったときほど、自分の命に、今を生きていることを実感するような言葉を発した方が良いことは明確です。





分かっているけど、実行するのは難しいことです。


しかし、忘れていては実行できません。


大好きな祖父のお葬式で泣き崩れながらも真剣に「ありがとう」という気持ちを伝える中学生の姿は、


「あなたは、自分の命に対して今を生きていることを実感するような言葉を普段から投げかけているのか」


と私に問うているように感じました。


同時に、愚痴を言うのではなく「ありがとう」といった前向きな言葉を発していない自分を恥じました。

達磨様の名札

あるお坊さんの結婚披露宴へ参加したときのことです。


受け付けを済ませ席次表を見ながら自分の席を探していると、私の名前が書かれたダルマ様が席に置いてありました。



600名前入り達磨大師




一般的には自分の座席には名前を書いた紙が置いてあるのですが、まさかダルマ様に名前が書いてあるとは予想もしていなかったので驚きました。


このお坊さんは私と同じ臨済宗(禅宗)のお坊さんです。


臨済宗を含めた禅宗最初の僧侶であるダルマ様こと達磨大師を私達はとても大切にしています。


ですから、「かわいい~」や「赤くて縁起が良さそう~」と言った軽い気持ちでダルマ様に触れることはありません。

もちろん、名札代わりにダルマ様を使うなどと言うことはありません。


では、なぜ名前が書いたダルマ様があるのでしょうか。






仏教では「だれもが生まれながらに素晴らしい存在である」と説いています。


「素晴らしい存在」を“仏”や“悟り”、“心”など様々な言葉で表現します。


このことを


白隠禅師【はくいんぜんじ】という江戸時代の和尚様は「衆生本来仏なり」と示し、

お釈迦様は「山川草木悉皆成仏【さんせんそうもくしっかいじょうぶつ】と 示されました。


これらは


お釈迦様は素晴らしくて、私はダメな人。

達磨様は素晴らしくて、私はダメな人。


ということを示してはいません。


お釈迦様も達磨様も、そしてあなたも み~んな素晴らしい!


つまり


お釈迦様 = 素晴らしい

達磨様 = 素晴らしい

あなた・私 = 素晴らしい


であるならば


お釈迦様 = 達磨様 = あなた = 私


なのです。


私自身が仏であり、達磨なのです。


禅はこのことを実感することの大切さを説いており、結婚披露宴の席に置かれた自分の名前の書かれた達磨大師も「お釈迦様 = 達磨様 = あなた = 私 ということを忘れるなよ」と語りかけているように感じます。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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