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葬儀や法事は何のためにするんですか?

500焼香180422



葬儀や法事は何のためにするんですか?



と聞かれることがあります。



私はこのように聞かれ、短い言葉で説明をしなければならないときには


「大切な人の心を受け取り、その心と共に生きていくことを改めて実感するためです」


とお伝えしています。




葬儀や法事は故人とのお別れの儀式だけではありません。


亡くなられた方を供養することで残された私達がどのように生きて行くのかを知ること、そしてどのように生きて行くのかを誓う式なのです。




元臨済宗妙心寺派管長 河野大通老師の言葉に次のようなものがあります





生きながら 死人になりて なりはてて

という歌がありましたけれども、我々が生きているということが、実は死んでおる。

死につつあるということで、一日生きたということは、一日死んだということ。

我々は今まさに生死しておるということ。

そして、それを私たちはただ心に、頭の中だけに思うのではなく、一息一息の中にそれを実現しているんだと実感することが大切だ。





この生死を実感するのが葬儀や法事と言った法要だと私は考えています。



「亡くなった人にお経なんか聞こえないから意味がない」


という人もいます。しかし、亡くなった人、亡くなった人の心は確実に私達の中にあります。手を合わせることで亡くなった方の心と自分の心が一つになっていきます。



その心にお経が入ってくるのです。


人は亡くなったら終わりではありません。


亡くなった人の心を誰もが受け取ることができます。


受け止めた心は私達の中で生き続けます。


受け止めるためには自分の心を調える必要があり、受け止めた後もその心を自分のものとしていくために心を調える必要があります。



そのために法要という習慣があるのです。


本当に必要がなければ習慣は残りません。


今でも葬儀・法事が習慣として残っているのは、法要をすることで我々は今まさに生死していることを、心に、頭の中だけに思うのではなく、一息一息の中にそれを実現しているんだと実感することができてきたからだと思います。



ですから、私は


「大切な人の心を受け取り、その心と共に生きていくことを改めて実感するのが葬儀や法事などの法要」


だと考えています。

家族葬について

500こまめ 涅槃シリーズ 涅槃図 


私は個人的に「家族葬」とは、家族がお客様になって座っていることではなく、家族が参列者を迎えて一緒にお参りすることだと信じています。






世間では「家族葬」という言葉が浸透してきています。


個人的な意見ですが、本当は昔からの行われてきた葬儀こそが家族葬だと思っています。




東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗(禅宗)のお寺です。




東光寺では葬儀の際に


葬儀はお別れの儀式でもあり、授戒【じゅかい】の儀式です。


と説明をさせていただいています。


授戒とは仏教徒になるための儀式であり、「戒」とはそのための約束事です。

戒を受け、頂く名前が「戒名」です。





そして、これらの儀式の際には花、果物、お菓子、お膳など様々なお供え物がされますが、葬儀に参列してくださった方々の真心も大切なお供え物です。



このように様々なお供え物を見返りの心を持たずにお供えすることこそが、仏教の大切な修行のひとつである「布施行(見返りを求めず誰かの為にできる限りのことをすること)」なのです。




そして、葬儀には「施主【せしゅ】」がおり、



施主は、施しをなす主(あるじ)のことを示す言葉です。



つまり、自ら費用を出して葬儀を開き、参列者のお参りを助けるのが施主の役割なのです。


亡くなった方の方を想い、お参りに来て下さる方をお迎えし、その方々の布施行を助けるのが施主であり、その施主を様々な形で支えるのが家族なのです。




お寺のどの法要も私達が幸せに生きていく方法を知るための修行です。



つまり、「家族葬」とは亡くなった方の家族がお参りをしながらも、家族が参列者を迎えて一緒にお参りすることで、参列してくださった故人と縁のある人々と共にこれからもしっかりと生きていくことを誓う儀式だと信じています。

人は亡くなると天国に行くのか!??

 「地獄」と言う本を 他のお寺で見せていただき私も購入しよう本屋さんへ行くと「地獄」という本の隣に



極楽




と言う本が売っていたので衝動買いをしてしまいました・・・


絵本 極楽_1



極楽という言葉を目にすると「天国」という言葉が頭に浮かびます・・・




 東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗妙心寺派のお寺です。



・・・・お釈迦様の教えを伝える仏教寺院です。






そのため、仏教徒の葬儀・告別式に接する機会が多くあります。




しかし、私がまだ若いころ(僧侶として生きていく前)に この告別式で読まれる弔辞について、ある和尚様に





「仏教徒なのに、弔辞やお別れの言葉で 天国に行っても見守ってください。 と言ってしまう人がいて困っている・・・」




と言われたことがあります。その時は




「え、天国って何か変なことなのかな?」




と、この和尚様の言わんとすることが分からず聞き流してしまいました・・・・





しかし、仏教のこと知ると「天国に行っても」と言う言葉は少し葬儀の場では相応しくない言葉なのかもしれないと感じるようになりました。




 仏教的な考え方(仏教以前からあった考え方)に輪廻転生【りんねてんしょう】と言う考え方があります。仏教語の辞書で調べると




 インドで広くおこなわれた考えであるが,仏教では,解脱(げだつ)しない限り,生ある者は迷いの世界である六道(ろくどう)を輪廻しなければならないと考えられていた
と書いてあります。






六道とは


 地獄【じごく】
 餓鬼【がき】
 畜生【ちくしょう】
 修羅【しゅら】
 人間【にんげん】
 天【てん】


の六つの世界のことであり、この六つの世界を生まれ変わり死に変わることを輪廻転生と言っています。




そして、この六つの世界をグルグル回り続けることから脱出することを解脱【げだつ】や悟りと表現します。




「天国」と言う言葉は仏教の言葉ではありませんが一番近い言葉が「天」・「天道」だと言えます。





残念ながら「天」は、何の苦しみも無い世界ではなく






経験苦のない喜びの世界だが、生死など根本苦が未解決な世界





と表現される世界です。 仏教徒は「天」ですら 突き抜けてしまおうと考えているわけですから、仏教の葬儀では




「天国へ行っても・・・」




と言う言葉は的確な表現とは言えなくなってしまうのです・・・






じゃあ どこへ行くの??





そんな疑問もあると思います。



 私は、この疑問の答えが一休さんの詩にあると思っています。ちなみに一休さんは600年ほど前の臨済宗の和尚さんです。



その一休さんの詩に





 死にはせぬ

 どこへも行かぬ

 ここに居る

 たづねはするな

 ものは云わぬぞ





といったものが残されています。分かりやすい、素敵な言葉です!

葬儀で「たいまつ」が登場する理由

東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗妙心寺派のお寺です。






臨済宗の葬儀に参列されたことがある方は、葬儀の際に導師が「たいまつ」を手にしているところを見たことがあるかもしれません。





 小学生くらいの子供達から葬儀に関する質問を受けると、臨済宗の葬儀に参列した小学生の多くが「たいまつ」の登場に疑問を感じていることがわかります。




400仏教豆知識シール 103 引導法語



 
 「臨済宗の葬儀に参加したけど、見たことが無い!!」






という方も もちろんいらっしゃると思います。 ・・・理由は後ほど御説明させていただきます。







「たいまつ」が登場するのは 引導法語の直前です。







 引導法語!???





と思われるかもしれません。引導法語とは







亡くなられた方の徳をたたえる心や、死をいたむ心を漢詩に託し、亡くなられた方を仏さまの世界に導くものです。








最後に「喝【かーーーつ】」と大きな声が聞こえてくる、あれです!







この引導法語をお唱えする前に炬火【たいまつ】で円(一円相)を空中に描きます。







これは、禅宗の和尚様である黄檗希運禅師【おうばくきうんぜんじ】のお話が元になっています。




 黄檗希運禅師の母親が溺死をしてしまったときに炬火【たいまつ】で円相を描き、その炬火【たいまつ】を投げたことに始まっています。





 ですから葬儀では引導法語をお唱えする前に炬火【たいまつ】で円(一円相)を空中に描き、本来であればその「たいまつ」を投げるのです!






 さすがに、本物の「たいまつ」を投げるわけにはいきませんので、木と赤い布(炎に見立てる)で出来た「たいまつ」作り使用している和尚様をよく見かけます。ですから、臨済宗の葬儀に参列しても




「たいまつ」を見たことがない





という方がいても不思議はありません。







 東光寺では「たいまつ」の代わりに長いお線香を使用しています。導師が引導法語をお唱えする前にお線香に火を付け一円相を描きます。






 葬儀という厳粛な雰囲気の中、ゆっくりとお線香で円を描くと お線香の通った場所にゆらゆらと煙が残る景色が私は美しいと感じています。





 
 葬儀に参列された際に 「たいまつ」やその代わりになるものが登場した時には、その雰囲気を感じ その後始まる引導法語に耳を傾け、亡くなられた方のことを想っていただければと思います。

数え年と仏教

 「失礼ですが、何歳ですか?」

 教員をしていた頃も聞かれることがありましたが、僧侶になってから(髪を剃ってから)は良く聞かれます。 

 最近この質問をされることが怖いと思ってしまう自分がいます・・・

 なぜ怖いのかと言うと、

20歳を超えてから自分の年齢を正確に思い出すのに時間がかかるようになってしまったためです・・・



 一般的に年齢を聞かれると、満年齢を答えます。

 しかし仏教では「数え年」を使います。葬儀の際などに実際(満年齢)よりも大きい年齢を聞いて戸惑った経験のある方もいらっしゃると思います。


 日本も江戸時代までは満年齢ではなく「数え年」を採用していました。実は「数え年」は仏教でも大切にしている年齢の数え方です。


 そもそも、満年齢と数え年は何が違うのかと言いますと

 満年齢・・・個人の誕生日を基準にして、誕生日で年齢が1つ上がる。
         (産まれたときは0歳)

 数え年・・・1月1日に1つ年齢が上がる。
         (産まれたときは1歳)


 と、考え方が違います。


 なぜ、産まれたときに1歳なのか!?

 仏教では、お母さんのお腹で誕生した時から命をいただいたと考えるからです。つまりお腹の中で約1年間生きて外に出てくるので、外に出てきた(出産)時に1歳と数えます。


 なぜ、1月1日に全員が年をとるのか!?

 また、個人の誕生日に関係なく1月1日に年齢が1つ上がるのにも理由があります。それは、大家族での生活が当たり前だった時代には事務的に計算が楽になるようにと、全員がまとまって歳をとった方が分かりやすかったためと言われています。



 ですから「数え年」で考えると、12月31日に誕生すると次の日(1月1日)には2歳になってしまっているのです。


赤ちゃん
  ↑↑↑ こんな2歳児もいたってことですね ↑↑↑



 満年齢での表現に慣れていると「数え年」で言われると老けたように感じたり違和感を感じる方もいらっしゃいますが、


  ・お腹の中の赤ちゃんの命も大切にしていること
  ・「個」よりも「全体」を優先している



 など「数え年」にも良い面もあるようで、数え方と理由を知ったときには「数え年」の表現を暖かく感じました。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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