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浜施餓鬼を開催報告 【令和元年】

500浜施餓鬼令和元年1



前日の夜に西日本を通過した台風10号の影響で、夜中には大量の雨が降り、明け方になってもどんよりとした空模様で法要中も土砂降りの雨が降りましたが、今年も無事に浜施餓鬼が開催されました。

そんな強い雨の中ですが、地域の方、御詠歌の方、子供坐禅会参加者など多くの方が浜施餓鬼【はませがき】のお参りに来てくださいました。




毎年8月16日は地区の大切な行事である浜施餓鬼が行われています。




東光寺は静岡市清水区横砂という地にあります。



この横砂地区で1年に1度行われているのが 浜施餓鬼【はませがき】という法要です。



横砂には現在の袖師埠頭があるところに大きな砂浜があり漁業も盛んな地域でした。また、昭和の時代までは海水浴場があり、夏にはJRの臨時駅も開設され大変なにぎわいだったそうです。


この海で毎年開催されているのが 浜施餓鬼  という 


漢字の通り


「浜」で行う「施餓鬼」です。


施餓鬼とは亡くなったご先祖様や縁のある方、そして縁のない方まで全てをお参りする法要です。法要では餓鬼に洗米と言って洗ったお米やお水をお供えし供養すると同時に水一滴・お米一粒でも満足することができるはずの自分の心を見つめ直す法要です。


一般的な「施餓鬼」では、各寺院の檀信徒の御先祖様をお参りしますが、浜施餓鬼では海で亡くなった方を御供養します。



500浜施餓鬼令和元年2





砂浜があった時代は砂浜で、その後も海の近くの公園で行ってきましたが、十数年前から東光寺の本堂で開催をしています。


今年も参加者と共に海の方角に向かいお参りをさせていただきました。


自治会長さんをはじめ、担当をしてくださった地域の方などが中心になり準備をしていただき多くの方がお参りをしてくださいました。



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子供達に地域の行事を経験してほしいと考え、夏休みの子供坐禅会に出席をしてくれている子供達や保護者の方に声をかけさせていただいたところ、多くの参加者が浜施餓鬼に参列してくれました。




参列者と一緒にお経をお唱えし、御詠歌【ごえいか】、そして回向【えこう】をさせていただきました。


子供達は坐禅会以外のお寺の行事へ参加する経験があまりありませんが、立派にお参りをしてくれました!

餓鬼の喉を広げる!


500餓鬼 こまめ


先日のブログで


あの旗にはなんて書いてあるんですか?? 【施餓鬼】


と題して、施餓鬼会で掛けられている旗を紹介させていただきました。



500施餓鬼 旗1807203




施餓鬼の由来になった救苦焔口餓鬼陀羅尼経【ぐくえんくがきだらにきょう】に


「清らかな器の中に清らかな水を入れ、重湯や餅、飯などを少しばかりその中に入れて
4人の仏様(多宝如来【たほうにょらい】、妙色身如来【にょうしきしんにょらい】、広博身如来【こうはくしんにょらい】、離怖畏如来【りふいにょらい】)の名前を唱えなさい。」



と書いてあり、その仏様の名前が旗にかいてあります。



と紹介をしました。※記事はこちらです。



このお経には、この4人の仏様の名前を唱えると何が起こるのかも書いてあります。





多宝如来【たほうにょらい】
積み重ねてきた物惜しみの悪業を打ち破り、罪障を消滅させる


妙色身如来【にょうしきしんにょらい】
餓鬼の醜く卑しい悪しき姿を打ち破ることで、そのまま仏のような美しい姿を完全に具えることになる


広博身如来【こうはくしんにょらい】
餓鬼の喉を広げて、施した食べ物を食べさせ満腹にさせることができる。


離怖畏如来【りふいにょらい】
畏れ【おそれ】を取り除き、餓鬼の世界から離れることができる。





とあるのです。



このことを知ったとき、広博身如来【こうはくしんにょらい】餓鬼の喉を広げて、施した食べ物を食べさせ満腹にさせることができる。



という部分が印象に残ったことを覚えています。




餓鬼がなぜ、食べ物を食べられないのか!?



これまで考えたこともありませんでした。



しかし、お経には餓鬼の姿もしっかりと記さされているのです。




やせ細り、衰え、

憔悴しきって極めて醜く

口の中で火が燃え、

喉が針先のようで、

頭髪が乱れ、

爪と歯が長く鋭い






と書いてあるのです。




喉が細いと言うことは、今の私の姿そのものだと感じます。



食べ物を食べるための喉ではありません。



餓鬼の喉は「教えを受け入れる心の道」だと私は考えています。



我以外皆我師【我以外 みな 我が師】



という言葉にあるように、本来であれば自分以外から大いに学ぶことはたくさんあるはずです。



しかし、私はついつい師匠を選り好みしてしまいます。



「あの人は実績があるから 言っていることは正しいだろう」


「あの人は たいした仕事をしていないから どうせ言っていることは間違っている」



などと、分別をしてしまっています。



この自分の都合に合わせて いろいろと選り好みする姿こそが 喉の細い餓鬼の姿だと感じます。





しかし、喉を広げて、施した食べ物を食べさせ満腹にさせることができるように、「教えを受け入れる心の道」も広げることができると信じています。

あの旗にはなんて書いてあるんですか?? 【施餓鬼】

500施餓鬼 旗1807203


「あの旗にはなんて書いてあるんですか??」



と、施餓鬼【せがき】の法要に初めて参加される方に聞かれることがあります。
※施餓鬼について詳しくはこちらをご覧ください。



500施餓鬼 旗1807201


確かに見慣れない旗がかかっています。



500施餓鬼 旗1807202




しかも漢字が書いてある。




無病息災、諸縁吉利、心願成就




などの言葉なら、普段は使わなくても漢字を見れば何となく意味が分かります。




しかし、これらの漢字はあまりになじみがないかもしれません。




実は、施餓鬼の由来となっているは




救苦焔口餓鬼陀羅尼経【ぐくえんくがきだらにきょう】というお経です
※由来についてはこちらをご覧ください。



短く、強引にまとめると、施餓鬼は



欲張る心・むさぼる心を表す餓鬼【がき】に食べ物などをお供えする法要です。





そして、お供えすることで自分自身の中にある餓鬼の心と向き合う法要なのです。



そして、気になる旗には仏様の名前が書いてあるのです。




それが、

多宝如来【たほうにょらい】

妙色身如来【にょうしきしんにょらい】

広博身如来【こうはくしんにょらい】

離怖畏如来【りふいにょらい】






です。





それぞれの最初に書いてある「南無【なむ】」は尊敬する、敬う、大切にする、帰依するなどの意味がある言葉です。



ですから、「南無多宝如来」であれば



多宝如来に帰依いたします。多宝如来を大切に拝みます



といった意味になるのです。



なぜ、この4人の仏様の名前が書いてあるのかと言えば、



施餓鬼の由来になった救苦焔口餓鬼陀羅尼経【ぐくえんくがきだらにきょう】に次のような教えがあるからです。




仏は阿難に言われた

「阿難よ、もしこの食べ物を施す作法を実施しようとするならば


清らかな器の中に清らかな水を入れ、重湯や餅、飯などを少しばかりその中に入れて


4人の仏様(多宝如来【たほうにょらい】、妙色身如来【にょうしきしんにょらい】、広博身如来【こうはくしんにょらい】、離怖畏如来【りふいにょらい】)の名前を唱えなさい。






この4人の仏様の名前は、施餓鬼の法要中にお唱えする開甘露門【かいかんろもん】というお経の中にも出てきますので、法要に参加しお経をお唱えしたことがある方には目にしたことがあるのではないでしょうか。



施餓鬼の法要では施餓鬼棚【せがきだな】と呼ばれている棚に水や食べ物をお供えします。



そして、その周囲には4人の仏様の名前が書かれた旗を立てるのです。



この姿こそが、仏様が阿難に伝えた



清らかな器の中に清らかな水を入れ、重湯や餅、飯などを少しばかりその中に入れ4人の仏様の名前を唱えなさい。



という教え、そのものなのだと私は考えています。



施餓鬼の法要に参加したとき、揺らめく旗を見たときには



「この旗には仏様の名前が書いてあるんだ!」



と感じて、法要中などに仏様のお名前を唱えていただければ幸いです。

山盛りのご飯のお供え物 【施餓鬼】

500山盛りのご飯


食事に行ったとき山盛りのご飯が出てきました。


ふんわりと盛ってあるわけではありません。


ギューと固めに盛り付けてくれています・・・



お腹いっぱいいただきました。





この山盛りのご飯を見たとき、施餓鬼【せがき】のお供え物を思い出しました。
※施餓鬼について詳しくはこちらをご覧ください。




施餓鬼の法要を行う際、中央に山盛りのご飯をお供えします。



500施餓鬼棚180719



餓鬼飯【がきめし】と呼ぶこともあります。




500施餓鬼棚1807192



なぜ山盛りのご飯がお供えされているのか。



実は、施餓鬼の由来となっているは



救苦焔口餓鬼陀羅尼経【ぐくえんくがきだらにきょう】というお経です




 お釈迦様の十大弟子の一人阿難尊者【あなんそんじゃ】がある日、一人静かに坐禅をして修行をしていました。

すると、鬼が現れ


「お前は三日以内に死ぬだろう。そして餓鬼道におちて苦しむだろう」


と言って消えていってしまったそうです。


突然鬼が見え、しかも「餓鬼道」に落ちると言われて阿難尊者は悩み、お釈迦様に相談しました。


するとお釈迦様は「多くの餓鬼や僧侶に食べ物や水などを供え供養すれば救われる」と言われたのです。そして、その通りにしたところ阿難尊者は長生きできたというお話に由来しています。






このお経の中にお釈迦様が弟子の阿難に次ように伝えたと書かれています。




阿難よ、もし、婆羅門と仙人に食べものを施そうとするならば、必ず飲食を鉢の中いっぱいに盛り、この陀羅尼【だらに】を誦えよ。

この飲食に七遍呪文をかけ、流水の中に注ぐならば、数限りない婆羅門【ばらもん】と諸々の仙人たちに、天上世界にあるような飲食を十分に献上したことになろう。


その婆羅門や仙人たちは、この食べものを食べ終わったならば、眼・耳・鼻・舌・身の五根の不具合がなくなり、何ひとつ欠けることなく安らいで、各々その願いを発して、食べものを施した人を次のように讃歎するであろう、


「私たちに食べものを施してくれたその人が、心、清浄になって、速やかに梵天の威厳と徳を証り、常に浄らかな行ないを修めて、数限りない如来に供養する功徳を完全に成就し、修行を邪魔するような諸々の敵に対して常に勝ることができますように」









私はこの言葉に触れたとき 「流水の中に注ぐ」という部分が気になりました。



お供えしたご飯を流してしまう・・・



一見すると食べ物を無駄にしているように感じます。



しかし、「流水の中に注ぐ」は実際に水の中に流すことが大切なのではなく、



・お供え物は法要が終わったら自分のものになる

・あのご飯をお腹いっぱい食べてやろう! チャーハンにでもしようかな、おにぎりにしようかな、とりあえず小分けにして冷凍かな・・・



といった自分勝手な気持ちを忘れなさい、捨てなさい。と説いてくださっているように感じます。



「自分のもの」、「私のもの」だという思いが、満足を知らない餓鬼の心を生み出してしまうのです。




私自身もついつい、様々な法要の際にお供え物を選ぶとき亡くなった方の好きなものや、亡くなった方に喜んでもらえるものを選ぶのではなく、自分達が好きなものを選んでしまったり、後々使い勝手の良い物を選んでしまったりします。




しかし、お供え物をするときに大切なのは「流水の中に注ぐ」がごとく、「自分こと」、「私のこと」を忘れて誰かのために、今自分ができることを精一杯にさせていただくことなのだと、山盛りのご飯や様々なお供え物を見るたびに思い出します。

なに そのお経!? 変じゃない? 【施餓鬼での開甘露門の唱え方】

500施餓鬼180718



結婚したばかりの頃、施餓鬼会【せがきえ】に向けてお経の練習をしている声を聞いて妻が


「さっきから オウオウ エーエー ウーウー って うなっているけど大丈夫?」


と私に言ったことがありました。




施餓鬼会【せがきえ】とい法要では開甘露門【かいかんろもん】というお経をお唱えします。


※施餓鬼会とは自分の心を見つめ直す法要です。詳しくはこちらの記事をご覧ください。
※施餓鬼の由来についてこちらをご覧ください。





この施餓鬼会では開甘露門(直訳すると「悟りの境界に入る門を開くお経」)というお経をお唱えします。

※以前「施餓鬼と 開甘露門  甘露の門を開くのは 南無の心!!」とブログで紹介しています。記事はこちらです。





施餓鬼会ではこの開甘露門を独特の唱え方をします。



それほど長いお経ではないのですが、一節ごとに区切り丁寧にお唱えします。


3回繰り返す部分があったり、2回繰り返す部分があったり、また妻に「ウーウー って うなっているけど」と言われたように独特の節回しで唱える部分があったりします。



もちろん、その時の流れで回数が変わったりすることはなく、決められた回数、決められた節回しがありますので多くの僧侶と共にお唱えしてもずれることはありません。



しかし、この開甘露門をお唱えするときに一か所だけ繰り返す回数が決まっていない部分があるのです。



それが南無三曼多 没駄喃梵 【なむさまんだー ほどなんばん】という部分です。



その他の箇所は繰り返す回数が決まっているのにも関わらず、ここだけは回数ではなく「動作」で決まっているのです。



法要の中心となる和尚様(導師【どうし】)が読経中に焼香などに進みます。その和尚様が席に戻るまで他の和尚様方は南無三曼多 没駄喃梵 【なむさまんだー ほどなんばん】と繰り返し唱え続けるのです。



なぜ、この部分で導師が前に進むのか理由を私は知りません。



しかし、南無三曼多 没駄喃梵 【なむさまんだー ほどなんばん】には



あまねく諸仏に帰命いたします



という意味があります。ありとあらゆる仏様を身命を投げ出して信じることを誓う言葉なのです。




この言葉の意味を知ったとき、回数を決めずに、何度も何度もお唱えするというよりも、あえて回数を決めることができないのではないかと感じました。



施餓鬼の法要中によく聞いていると南無三曼多 没駄喃梵 【なむさまんだー ほどなんばん】と繰り返しお唱えしていることに気が付くかもしれません。



その際には、ぜひ一緒に南無三曼多 没駄喃梵とお唱えして頂ければ幸いです。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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