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監視社会から拝みあいの社会へ

以前のニュースで、東京都の弁当店が 「売り場の様子をYouTube上でライブ配信したら万引きが激減した」 と紹介されていたことが記憶に残っています。



誰かに見られていると悪いことはしにくいものです。



監視社会だと感じる人もいるかもしれません。



しかし私は、このような監視社会の先に“拝みあいの世界”が広がっていると信じています。






仏教では誰もが尊い仏の心を頂いていると説きます。






600合掌こまめ





臨済宗妙心寺派の信心のことばには

衆生(生きとし生けるものすべて)は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう

と、あります。





私も仏の心を持ち、相手も仏の心を持っていると信じて相手を大切にしていきましょう。



と伝えてくださる言葉です。






菩提和讃【ぼだいわさん】というお経に



この身すなわち仏にて 仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す





という私が好きな一節があります。




自分自身が仏だと実感し 仏を拝むということは 仏が仏を念じている姿であり 一言唱える称名が諸仏の浄土に到達し、はっきりと響き渡っている



と伝えてくださる言葉です。




監視することは見つめ合わなければできません。


そして、どうせ見つめ合うならば拝みあう関係性の方が素敵だと感じます。






自分と相手を信じて見つめることが監視社会から抜け出し拝みあう世界へと変化することを願っています。

絵葉書法話 44 【死んだのち 仏と成ると 思うなよ しなぬ内こそ 真の妙法】

1204写経会 絵葉書 44 死んだのち


死んだのち 仏と成ると 思うなよ

   
緑の葉を透かしても見えにくいが、枯れ葉を太陽に透かすと美しい葉脈がハッキリと見える。

活動しているときに大切なものが見えないが役割を終えた後に大切なものが見える所は人間も同じ。

でも、それじゃぁもったいない!








枯れ葉に太陽があたったときに葉脈がきれいに見えたので思わず写真を撮りました。


同時に、緑の葉を太陽に透かして見ましたが葉脈ははっきりと見ることができませんでした。


この違いを感じたとき、江戸時代の禅僧である白隠禅師(白隠慧鶴)が


「みんなが仏様であり、誰もが尊い心をいただいて生まれてきたこと、自分自身こそが仏だと自覚しなくてはいけない」ことを「衆生本来仏なり:しゅじょう ほんらい ほとけなり」


と説かれたことを思い出しました。





なぜ白隠禅師は「衆生本来仏なり」と説かれたのでしょう。


それは私達が「自分自身こそが仏だ!!」と自覚できていないからだと思います。白隠禅師は



死んだのち 仏と成ると 思うなよ しなぬ内こそ 真の妙法



とも説いています。




「死んだのち 仏と成ると 思うなよ」とは枯れ葉の中だけに葉脈をみつけてきれいだと感じて写真を撮った私への強烈な言葉だと感じます。



枯れ葉の中の葉脈が仏だとするならば、生きた葉の中にも仏(葉脈)はあります。


どちらかと言えば、生きた葉の中の仏(葉脈)こそ生き生きと活動し輝いているはずなのに、私はそこに気がつくことができなかったのです。




このことは、亡くなった方のことを「仏様」と呼ぶことに抵抗がないのに、目の前の人 ましてや自分自身を「仏様」と呼ぶことができないことによく似ています。



白隠禅師は、今でも自覚することができない私達に「衆生本来仏なり」と説き続けてくれています。



まずは枯れ葉を見たときには枯れ葉の美しさを、緑の葉を見たときには緑の葉の美しさを素直に感じることが、目の前の人、そして自分自身が尊い存在であると自覚する第1歩になるのではないでしょうか。







1204写経会 絵葉書 44 死んだのち 表

 白隠慧鶴 【はくいんえかく】
   


   
 白隠禅師。現在の静岡県沼津市原で産まれ、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠』とまで謳われた




信仰は形からなのか!?

500合掌160126


信仰とは 行動にともなって自然と身につくもの。だから信じなくてもまずは祈ることが大切だ。



という言葉を聞いたことがあります。信仰を辞書で調べれば



無垢(むく)な心で神仏を信頼し崇拝すること。



と書いてあります。






先日の記事で


予想外の苦しみなどに出会ったときに必要なのは心の拠り所であり、これは信仰心や信じる心です。


と書きました。
※記事はこちらです。






では、この信仰心はどこにあり、どのように形成されるものなのでしょうか。


辞書には“信仰心は仏を信頼すること”とあります。


では仏はどこにいるのか?


禅宗では“自分が仏である”とし、そのことを自覚することの大切さを説いています。







臨済宗相国寺派管長の有馬頼底師の著書の中に



禅宗では「一掃除。二信心」と申します。お経を読むより、まず掃除をしろということです。

それはなぜかと言えば、掃除そのものが功徳だからです。掃除即仏法なのです。

仏法というのは、なにも特別なことではありません。

掃除をすることが、すなわち仏さまの教えなのであります。






という言葉があります。


特別なことではなく、目の前にあることに一生懸命取り組むことで“信心”が起こる。つまり自分が仏であると自覚することができるのです。





冒頭の


信仰とは 行動にともなって自然と身につくもの


という言葉は




ただ漠然と「私の中にも仏の心がある」と思い込むのではなく、”行動” 特別な修行ではなく掃除・挨拶・合掌など身近な良い習慣を実践することで苦しんだときに必要な心の拠り所を見つけることができることを教えてくれているようにも感じます。

本当の姿が見えていない


先日、“米村でんじろうのふしぎな実験室”と題した、科学の体験イベントが地元で行われていることを知り、小学生の子供を連れて行ってきました。


興味深い展示や体験できるコーナーが多くあり、かなり楽しませていただきました。




このイベントの入り口にあった1枚の絵も印象に残っています。



500眼には見えない絵1




某有名テーマパークにも同じ原理を使った展示物がありますが・・・


何もせずに写真を撮ると


でんじろう先生だけが写ります。


もちろん、肉眼で見ているときも、この写真のように見えます。






しかし、フラッシュを使って撮影をすると・・・



見えていなかった多くの絵が写っています。



500眼には見えない絵2




仏教では私達は生まれながらに仏様のような尊い心を頂いていると説いています。


自分自身が仏であり、目の前にいる人・隣にいる人、誰もが仏様なのです。


しかし、そのことに気がつかないで生活をしてしまっています。






このことは、先ほどのフラッシュを使うことで本当は描かれていた絵が撮影できることによく似ているように感じます。

先ほどの絵で言えば、フラッシュを使わなくては見えない部分が、生まれながらにいただいている尊い心だと私は感じました。

すでに描かれている絵と、すでに頂いている尊い心、普段の生活では見ることができない絵も強い光を当てることで奥底にあったものが浮かび上がってきます。


同様に、すでに頂いている尊い心を浮かび上がらせるためにも“光”が必要です。


では、この“光”はどこにあるのでしょうか。


このフラッシュのような強力な光こそが、これまで守り伝えられてきた仏教の教え(法)だと私は考えています。
仏教の教えによって自分自身の奥底にある仏様の心を浮かび上がらせることの大切さを、1枚の絵に教えてもらったように感じます。

扉が閉まって見えたもの! 190712


良く訪れる場所に、ある扉がありました。


その扉は、これまで何度となく見てきた扉です。


これまで見てきたときは いつも扉は開いていました。




500P_20190710_154427.jpg

写真はその扉の一部です。





先日、この扉の前に立つと扉は驚きの表情を見せてくれていました。


いつもは開いている扉が・・・閉まっていたのです。


開いているところしか見てこなかったので、扉が閉まっていることに驚きました。


そして一番驚いたことは、扉が閉まったことで扉の新たな姿を見ることができたことです。






500光を通すためには 自分をきれいにするしかない

実は、色などあまり感じていなかった扉の一部に美しい装飾がされていたのです。



普段、扉が開いているときは装飾部分が壁と接触するため見えづらかったのですが、扉を閉めることで、向こう側の光が透過してきたのです。



その美しい姿に思わず見とれていました。



扉にはもともと美しい装飾があったのです。






でも、そのことには気づいていませんでした。

私達人間も、もともと美しい心をいただいています。
でも、そのことには気がつけないものです。

今回、扉の美しい姿を見ることができたのは「扉が美しい装飾を維持し続着たこと」・「扉の位置がいつもと違っていた。」ことなどが考えられます。

私達も自分自身の美しい心を感じるためには、「美しい心を維持する」・「自分自身の立ち位置を少し変えて周囲を見てみる」事なども有効なのかもしれません・・・
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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