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NASAで働く日本人に学ぶ

600火星探査機パーサヴィアランス



先日、NASA(アメリカ航空宇宙局)の火星探査機が火星に到着し火星の映像と音声を地球に送ったとニュースになりました。


そのニュースで知ったのは、この火星探査機の開発にNASAで働く大丸拓郎さんという日本人の方が関わっているということでした。


そして、その大丸拓郎さんが、どのようにしてNASAで働くことができるようになったかを本人がまとめた記事も読むことができました。


※実際の記事はこちらです。興味のある方はぜひご覧ください。





その記事の中で私が興味深く読んだのは大丸さんが進学先を決めた場面です。


大丸さんは



日本の大学院に在学中にNASAで働くことを目指すようになりました。

そこで色々調べてみると日本の大学の学部を卒業してアメリカの大学院に進学している人たちがいる事を知ったそうです。

NASAで働こうと考えるのならば、アメリカの大学院への進学は当然必要な気がします。

しかし、大丸さんはそうはしませんでした。

アメリカに渡って大学院に入り直してNASAを目指すよりも、そのまま日本で地道に実力をつけることを選んだのです。

そして見事に目標を達成されたのです。





※くわしい内容は御本人の記事をご覧ください。





江戸時代の禅僧、白隠禅師【はくいんぜんじ】が説いた坐禅和讃【ざぜんわさん】というお経の中に





衆生近きを知らずして
【私達自身が仏なのに】

遠く求むるはかなさよ
【遠くに仏を探すのはもったいないことです】


浄土即ち遠からず
【今・こここそが浄土であり、極楽です】


当処即ち蓮華国
【「ここ」こそが極楽であります】





と、あまり長くないお経の中で繰り返し、”ここ”の大切さを説いています。


今の自分に何ができるのかを考えて、「NASAで働きたいならアメリカへ行く」のではなく、その場所で努力を重ねた大丸さんの歩んできた道のりは白隠禅師坐禅和讃の実践だと感じます。


これからも火星探査機からの映像やデータから数多くの新たな発見があるかと思います。


そういった知らせを聞くたびに大丸さんのことを思い出し、いま・ここで精進することの大切さを思い出していこうと思います。

涅槃図に描かれない最後の弟子

600涅槃図 燃えるお坊さん


お釈迦様が亡くなれた際の様子を描いたものを涅槃図と言います。


お釈迦様の御命日である2月15日に多くのお寺で涅槃図を掛けてお参りをするので見かけたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
※涅槃図についてはこちらの記事をご覧ください


その涅槃図について書かれた本を読んでいると、興味深い内容が書かれていました


涅槃図には亡くなられたお釈迦様の近くで悲しみのあまり倒れているアナンダ【阿難尊者・あなんそんじゃ・アナン】が描かれています。


本には、


アナンダをスバッタと勘違いする人がいる。




と書いてあるのです。



本来ならばスバッタはお釈迦様が亡くなる前に亡くなっているので涅槃図に描かれることがない。
しかし、アナンダが倒れている姿が亡くなっているようにも見えるのでスバッタと勘違いしてしまう人がいる。

しかしスバッタはお釈迦様が亡くなることを知って、亡くなる瞬間にとても立ち会うことができないと言って

結跏趺坐し、
自ら神力をもって
身中より火を出し
身を焼いて
滅度を取る

という亡くなりかたをした。


とも書いてありました。



この「結跏趺坐し、自ら神力をもって身中より火を出し身を焼いて滅度を取る」という言葉は


足を組み、坐禅をして、体の中から火を出して、その火で全身を焼き尽くして亡くなった


と捉えることができます。しかし、スバッタの最後の姿は何を示してくれているのかと考えれば




結跏趺坐し 
【坐禅をすることで】

自ら神力をもって
【生まれたときから頂いている尊い心を実感し】

身中より火を出し身を焼いて滅度を取る
【呼吸を調えることで、自分の中にある煩悩や迷いを焼き尽くす】




とも言えるのではないでしょうか。


坐禅中に呼吸を調えようとするときには、息をゆっくりと吐きます。

吐くときに自然とお腹がへこんでいき「もうこれ以上でない」と本気で感じるまで吐きつくします。

そして、ゆっくりと息を吸います。

すると先ほどへこんだお腹がゆっくりともとに戻ってきます。



実際にこの呼吸をすると、お腹の中からポカポカと温まってきます。


この呼吸を続けることが「身中より火を出し 身を焼いて 滅度を取る」なのだと考えています。


涅槃図に描かれていませんが、涅槃図の中で倒れているアナンダをお参りしたときには、最後の弟子であるスバッタのことを思い出し、スバッタの最後に姿から心を調えることの大切さを思い出していただきたいと思います。

実践して実感する例え話 その2

前回の記事で「泥水の例え話」を紹介させていただきました。
※記事はこちらです。



仏教の例え話に“泥水の例え”があり、水が清らかな心、泥が煩悩などの嫌な心を表していて、私達の普段の心は、それらが交じり合った泥水のような物です。


そして泥水をそっとしておくことで水と泥に分かれるように、心を調えることで自分の清らかな心を実感することができるといったものです。





今回の記事はその続きです。



ペットボトルの中の泥水を沈殿すること1週間。


ようやく中の水が透明になってきたことを確認できたので、写真を撮影しようとしたときにあることに気がつきました。




600泥水の沈殿3




それは、時間をかけてしっかりと沈殿した泥は、少しくらい容器を動かしても泥はどっしりと動かないため水が濁らないということです。


なんと、横にしても動きません。


沈殿させ始めたころに動かせば簡単に泥は舞い上がり、水が濁ります。


容器を横にすれば泥は流れていきます。


しかし、時間をかけて沈殿した泥は動きにくいのです。


泥が沈殿し水が透明になる様子を観察しているときには


「こんなに時間がかかるなんて・・・もっと早く沈殿しないかな!!?」


と思っていましたが、容器を横にしても動かない泥を見たときに、


「時間をかけて心を調えることができれば、少しくらいの環境変化に動じない心を手に入れることができる。」


と感じました。




なんでも“時短”や“効率化”が求められる時代です。


しかし、改めて時間をかけることで生じる素晴らしい部分もあることを忘れてはいけないと教えていただいたように感じます。

個人的には般若心経→回向→坐禅和讃の流れはすごいと思います。

500読経こまめ正方形


個人的には般若心経→回向→坐禅和讃の流れはすごいと思います。




東光寺(静岡市清水区横砂)の子供坐禅会では坐禅の後に読経をします。




ここでは


般若心経 【はんにゃしんぎょう】

回向 【えこう】

白隠禅師坐禅和讃 【はくいんぜんじ ざぜんわさん】




をお唱えします。




坐禅会を始めようと考えたときに、自分なりに周囲で行われている坐禅会などを参考に決めたものです。



最近、お経の意味を考えたときに、多くの方と一緒に坐る坐禅会の最後にこれらのお経をお唱えすることは、とても良いことだと改めて感じています。





般若心経の最後の部分に


波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】


とあります。



これは、彼岸と呼ばれる悟りの世界に仲間と共に渡ることを意味しています。




この部分を含めて般若心経を唱えた後は回向【えこう】をします。



回向とは、読経など様々な功徳(善い行い)が自分の為だけではなく、全ての人達の為になりますように祈ることです。




その後にお唱えするのが白隠禅師坐禅和讃です。


この冒頭部分は、「全ての命あるものは仏様のような尊い心をいただいている」という



衆生本来仏なり【しゅじょう ほんらい ほとけなり】



で始まります。





般若心経 【はんにゃしんぎょう】の最後の部分

回向 【えこう】

白隠禅師坐禅和讃 【はくいんぜんじ ざぜんわさん】の冒頭部分




という、時間にすると1~2分の間に



般若心経の最後で悟りの世界へ皆で渡れることを確認し、

さらに坐禅や読経した功徳(善い行い)が皆の為になることを祈り、

坐禅和讃の冒頭部分で皆が尊い心をいただいていていることを思い出しているのです。






そして白隠禅師坐禅和讃の最後の部分には、


今・ここが極楽のような素晴らしい場所だったことに気がつくことの大切さを説く


当所即ち蓮華国【とうしょ すなわち れんげこく】


という言葉が出てきます。






お経の意味を知ったとき、「坐禅をするとこに“意味”を求めてはいけない」とも言われますが




坐禅をして読経をすることで、


「私達は、今・ここで皆と共に生きて幸せになれる存在なのだと実感しなさい!!」


と先人達に教えていただいているように感じます。

オンライン坐禅会での法話【一般向け:仏教聖典 心を清める4 耐え忍ぶ】

耐え忍ぶことは受け流すことに 我慢は自慢につながる。

自慢ばかりする人に魅力を感じますか。

私は感じません。






前回の記事で

仏教聖典の中にある「煩悩から離れる五つの方法」の中の「耐え忍ぶ」を紹介させていただきました。
※記事はこちらです



その中で、

耐え忍ぶためには「受け止める・受け入れる・受け流す」ことが大切であること。

自然豊かな山の中で苦手な虫に出会ったとしても
1.虫がいた
2.この虫がいるから豊かな山がある ありがたい
3.石を元に戻す
といった具合に受け流すことと、坐禅の最中に呼吸に集中する過程で頭の中に浮かんできた事柄を受け流す方法の共通点を紹介させていただきました。


今回はその続きとも言える内容です。



少し前に、本屋さんである本の題名を見たときに衝撃を受けました。





600そいつ今ごろパフェ

多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ



という本です。



この言葉も,、耐え忍ぶ際に必要な「受け止める・受け入れる・受け流す」を実践する助けになるように感じます。



何か嫌なことを言われれば、その瞬間は嫌な気持ちになります。


しかしその後、嫌なことを言った人がいなくなっても私達はどうしても嫌な気持ちを引きずってしまいがちです。


では、その時に嫌なことを言った人は嫌なことを言い続けているのでしょうか。


もちろん、そんなことはありません。


パフェでも食べているかもしれません。


では、なぜ私達は嫌な気持ちを保ってしまうのでしょうか。


パフェでも食べてのんびりしているかもしれない嫌なことを言った相手を いつまでも自分の中で生かし続けているからです。


そんな、バカらしいことをやめましょうよと「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ」という言葉は教えてくれています。






では我慢をすれば良いのでしょうか。


残念ながら我慢はよくありません。


ストレスが溜まるから?


もちろんそれもあります。


しかしそれだけではありません。


仏教では「我慢」を良い意味では使いません。



「我」には“自分だけをかえりみる”

「慢」には“(他人と比較して思い上がる”




という意味があり、


我慢は他社と比較して自分だけが優れていると思い込むという意味があるのです。




このことから、私は


我慢は やがて 自慢に変わる


と考えています。


我慢をしたことは、「俺はこんなに苦労したんだ!」という一時的な高揚感を生み出しますが、その後は慢心へとつながり、ついつい自慢をしてしまいます。


しかし、「受け止める・受け入れる・受け流す」の実践は、その後 何も残りません。



だからこそ、仏教聖典でも我慢ではなく耐え忍ぶことを説いているのかもしれません。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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