絵葉書法話 44 【死んだのち 仏と成ると 思うなよ しなぬ内こそ 真の妙法】

死んだのち 仏と成ると 思うなよ
緑の葉を透かしても見えにくいが、枯れ葉を太陽に透かすと美しい葉脈がハッキリと見える。
活動しているときに大切なものが見えないが役割を終えた後に大切なものが見える所は人間も同じ。
でも、それじゃぁもったいない!
枯れ葉に太陽があたったときに葉脈がきれいに見えたので思わず写真を撮りました。
同時に、緑の葉を太陽に透かして見ましたが葉脈ははっきりと見ることができませんでした。
この違いを感じたとき、江戸時代の禅僧である白隠禅師(白隠慧鶴)が
「みんなが仏様であり、誰もが尊い心をいただいて生まれてきたこと、自分自身こそが仏だと自覚しなくてはいけない」ことを「衆生本来仏なり:しゅじょう ほんらい ほとけなり」
と説かれたことを思い出しました。
なぜ白隠禅師は「衆生本来仏なり」と説かれたのでしょう。
それは私達が「自分自身こそが仏だ!!」と自覚できていないからだと思います。白隠禅師は
死んだのち 仏と成ると 思うなよ しなぬ内こそ 真の妙法
とも説いています。
「死んだのち 仏と成ると 思うなよ」とは枯れ葉の中だけに葉脈をみつけてきれいだと感じて写真を撮った私への強烈な言葉だと感じます。
枯れ葉の中の葉脈が仏だとするならば、生きた葉の中にも仏(葉脈)はあります。
どちらかと言えば、生きた葉の中の仏(葉脈)こそ生き生きと活動し輝いているはずなのに、私はそこに気がつくことができなかったのです。
このことは、亡くなった方のことを「仏様」と呼ぶことに抵抗がないのに、目の前の人 ましてや自分自身を「仏様」と呼ぶことができないことによく似ています。
白隠禅師は、今でも自覚することができない私達に「衆生本来仏なり」と説き続けてくれています。
まずは枯れ葉を見たときには枯れ葉の美しさを、緑の葉を見たときには緑の葉の美しさを素直に感じることが、目の前の人、そして自分自身が尊い存在であると自覚する第1歩になるのではないでしょうか。

白隠慧鶴 【はくいんえかく】
白隠禅師。現在の静岡県沼津市原で産まれ、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠』とまで謳われた