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保育園児の坐禅体験 【令和2年5月】


東光寺(静岡市清水区横砂)の境内にある袖師保育園の園児達は毎月坐禅体験にやってきてくれます。



今月もコロナウイルス感染拡大防止の影響で少ない人数ですが無事に開催することができました。





800坐禅体験200527

私も、参加した園児もマスクをするという見慣れない風景です・・・
 




感染拡大防止のために本堂の戸と窓を開け放ち、風通をよくして園児を迎えます

開けすぎて、他の学年の園児が外で遊ぶ声が聞こえ、姿が見えてしまうため集中はしにくい環境でしたが頑張って坐り続けていました。




 年長組は初めての和尚が警策【けいさく】を持って歩く坐禅に挑戦しました。警策とは坐禅中に上手く坐れていない人などを励まし、指導する木の棒です。


 彼らは説明を楽しそうに聞いていましたが、実際に私が警策を持って歩くと、かなり緊張をしているようでした。




 年中組は足を組んでの坐禅に初めて挑戦をしました。坐禅の後は焼香・合掌礼拝の練習をして上手にできるようになりました。 
 



 いつもは茶礼(されい:お茶とお菓子を行儀よく食べたり飲んだりする)ですが、残念ながらお休みです。
 
 

 来月にはできるようになっていることを祈りながら、今年度2回目の坐禅体験を終えました。

これが最後のお知らせかもしれません・・・

600座って手を合わせるこまめ





様々な行事を中止するお知らせを出してまいりましたが、これが最後のお知らせになるかもしれません。


もう、中止にするものは何もありません・・・




次は再開のお知らせをしたいものです。



東光寺(静岡市清水区横砂)で毎月行っている、坐禅会と写経会、お地蔵様のお参り、私が講師をさせていただいている朝日カルチャーの「イス坐禅と写経」全て中止が決定いたしました。




ますます感染拡大が広がっている状況を考えれば、これより有効な対策が他にはありません。



いつ再開できるのか予想がつかないので、よりさみしい気持ちになります。



お参り等は僧侶だけで続けていきますので、行事等に参加できない皆様も御自宅の御仏壇の前など心が静かになる場所で、坐禅や写経、お参りなどをしていただければ幸いです。

監視社会から拝みあいの社会へ

以前のニュースで、東京都の弁当店が 「売り場の様子をYouTube上でライブ配信したら万引きが激減した」 と紹介されていたことが記憶に残っています。



誰かに見られていると悪いことはしにくいものです。



監視社会だと感じる人もいるかもしれません。



しかし私は、このような監視社会の先に“拝みあいの世界”が広がっていると信じています。






仏教では誰もが尊い仏の心を頂いていると説きます。






600合掌こまめ





臨済宗妙心寺派の信心のことばには

衆生(生きとし生けるものすべて)は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう

と、あります。





私も仏の心を持ち、相手も仏の心を持っていると信じて相手を大切にしていきましょう。



と伝えてくださる言葉です。






菩提和讃【ぼだいわさん】というお経に



この身すなわち仏にて 仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す





という私が好きな一節があります。




自分自身が仏だと実感し 仏を拝むということは 仏が仏を念じている姿であり 一言唱える称名が諸仏の浄土に到達し、はっきりと響き渡っている



と伝えてくださる言葉です。




監視することは見つめ合わなければできません。


そして、どうせ見つめ合うならば拝みあう関係性の方が素敵だと感じます。






自分と相手を信じて見つめることが監視社会から抜け出し拝みあう世界へと変化することを願っています。

絵葉書法話 44 【死んだのち 仏と成ると 思うなよ しなぬ内こそ 真の妙法】

1204写経会 絵葉書 44 死んだのち


死んだのち 仏と成ると 思うなよ

   
緑の葉を透かしても見えにくいが、枯れ葉を太陽に透かすと美しい葉脈がハッキリと見える。

活動しているときに大切なものが見えないが役割を終えた後に大切なものが見える所は人間も同じ。

でも、それじゃぁもったいない!








枯れ葉に太陽があたったときに葉脈がきれいに見えたので思わず写真を撮りました。


同時に、緑の葉を太陽に透かして見ましたが葉脈ははっきりと見ることができませんでした。


この違いを感じたとき、江戸時代の禅僧である白隠禅師(白隠慧鶴)が


「みんなが仏様であり、誰もが尊い心をいただいて生まれてきたこと、自分自身こそが仏だと自覚しなくてはいけない」ことを「衆生本来仏なり:しゅじょう ほんらい ほとけなり」


と説かれたことを思い出しました。





なぜ白隠禅師は「衆生本来仏なり」と説かれたのでしょう。


それは私達が「自分自身こそが仏だ!!」と自覚できていないからだと思います。白隠禅師は



死んだのち 仏と成ると 思うなよ しなぬ内こそ 真の妙法



とも説いています。




「死んだのち 仏と成ると 思うなよ」とは枯れ葉の中だけに葉脈をみつけてきれいだと感じて写真を撮った私への強烈な言葉だと感じます。



枯れ葉の中の葉脈が仏だとするならば、生きた葉の中にも仏(葉脈)はあります。


どちらかと言えば、生きた葉の中の仏(葉脈)こそ生き生きと活動し輝いているはずなのに、私はそこに気がつくことができなかったのです。




このことは、亡くなった方のことを「仏様」と呼ぶことに抵抗がないのに、目の前の人 ましてや自分自身を「仏様」と呼ぶことができないことによく似ています。



白隠禅師は、今でも自覚することができない私達に「衆生本来仏なり」と説き続けてくれています。



まずは枯れ葉を見たときには枯れ葉の美しさを、緑の葉を見たときには緑の葉の美しさを素直に感じることが、目の前の人、そして自分自身が尊い存在であると自覚する第1歩になるのではないでしょうか。







1204写経会 絵葉書 44 死んだのち 表

 白隠慧鶴 【はくいんえかく】
   


   
 白隠禅師。現在の静岡県沼津市原で産まれ、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠』とまで謳われた




信仰は形からなのか!?

500合掌160126


信仰とは 行動にともなって自然と身につくもの。だから信じなくてもまずは祈ることが大切だ。



という言葉を聞いたことがあります。信仰を辞書で調べれば



無垢(むく)な心で神仏を信頼し崇拝すること。



と書いてあります。






先日の記事で


予想外の苦しみなどに出会ったときに必要なのは心の拠り所であり、これは信仰心や信じる心です。


と書きました。
※記事はこちらです。






では、この信仰心はどこにあり、どのように形成されるものなのでしょうか。


辞書には“信仰心は仏を信頼すること”とあります。


では仏はどこにいるのか?


禅宗では“自分が仏である”とし、そのことを自覚することの大切さを説いています。







臨済宗相国寺派管長の有馬頼底師の著書の中に



禅宗では「一掃除。二信心」と申します。お経を読むより、まず掃除をしろということです。

それはなぜかと言えば、掃除そのものが功徳だからです。掃除即仏法なのです。

仏法というのは、なにも特別なことではありません。

掃除をすることが、すなわち仏さまの教えなのであります。






という言葉があります。


特別なことではなく、目の前にあることに一生懸命取り組むことで“信心”が起こる。つまり自分が仏であると自覚することができるのです。





冒頭の


信仰とは 行動にともなって自然と身につくもの


という言葉は




ただ漠然と「私の中にも仏の心がある」と思い込むのではなく、”行動” 特別な修行ではなく掃除・挨拶・合掌など身近な良い習慣を実践することで苦しんだときに必要な心の拠り所を見つけることができることを教えてくれているようにも感じます。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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