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決めつけてはいけない セミの抜け殻に教えてもらったこと

人に勝手に決めつけられると腹が立つことがあります。


これまでに言われたことで 印象に残っている「決めつけられたこと」と言えば


「顔が濃いんだから お酒飲めるでしょう!」

「理系なんだから、まっすぐな線が引けるでしょ。」

「静岡出身!? いやいや東南アジアでしょ!」

「卓球やってるの?黒いから屋外のスポーツだと思った。」

「お前がやったんだ!」

「またお前か・・・」




などなど・・・



決めつけられると悲しい気持ちになることが多かったので、自分はできるだけ見た目で判断したり、決めつけないよう使用と考えてきました。





500セミの抜け殻




先日、セミの抜け殻を見つけました。








500セミの抜け殻2



なんと、草で脱皮をしたようです!!



これを見て驚いた私に、私が驚きました。



「セミは木につかまって脱皮をする」



という思い込み、妄想があったことに気がついたのです。




普段から使っている言葉にも仏教の言葉は多くあります。



妄想 【もうそう ・ もうぞう】



もその一つです。仏教では妄想は 「誤った考え・想念,また迷いの心によって真実を見誤ること。」を意味しています。



禅でも莫妄想【まくもうぞう】と、「妄想することなかれ」といって,心のはたらきを放棄することを説いています。




草についたセミの抜け殻に驚いているようでは、まだまだ「莫妄想」にほど遠いようです・・・

情けなくて恥ずかしい私 【その2】

禅宗の修行には提唱【ていしょう】というものがあります。



指導してくださる和尚様が仏教の教えを説いてくださる時間です。



こまめ 法施



恥ずかしい話ですが、私はこの時間が苦手でした。



指導してくださる和尚様が教えを説いているときに、聞いている側は足を組み集中しています。




しかし、情けない私は足が痛くなるだけでなく睡魔に襲われることがよくありました・・・




なぜ、睡魔襲われ内容を覚えていないのか・・・



それは私の勘違いが大きな原因です。



私は提唱を学校の授業や講義と同じものだと勘違いしていたのです。



授業は先生と生徒がいて成り立ちいます。



提唱も「教える人」がいて、教える人は話をして、教わる人は話を聞いています。



一見すると学校の授業と同じです。



しかし、全く違うんです。



昭和の大変に有名な禅僧で、静岡にも縁が深い山本玄峰老師は著書の中で




終日 火を説いて 熱からずじゃ





という言葉を出されています。




火の話しを1日したところで、火傷も何もしやせん




と言うのです。そして、



火をそのままつまんで手を焼くごとくに、心と心の通じ合いが提唱じゃ。提唱は講習ではない



とも書いてあるのです。




提唱は指導してくださる和尚様が仏教の教えを説いてくださる時間です。



しかし、指導する側だけで成立するものではありません。



受け止める側が努力を怠ってはいけないのです。受け止めるだけの努力をしないことは「火の話しを1日している」ということになるのです。



これでは、火傷も何もできません。
指導してくださる和尚様の心は火のように燃えあがっているのですから、その火を「つまむ」ごとくにこちらも覚悟を持って提唱に臨むことができていなかったことを今更ながら後悔しています・・・

葬儀や法事は何のためにするんですか?

500焼香180422



葬儀や法事は何のためにするんですか?



と聞かれることがあります。



私はこのように聞かれ、短い言葉で説明をしなければならないときには


「大切な人の心を受け取り、その心と共に生きていくことを改めて実感するためです」


とお伝えしています。




葬儀や法事は故人とのお別れの儀式だけではありません。


亡くなられた方を供養することで残された私達がどのように生きて行くのかを知ること、そしてどのように生きて行くのかを誓う式なのです。




元臨済宗妙心寺派管長 河野大通老師の言葉に次のようなものがあります





生きながら 死人になりて なりはてて

という歌がありましたけれども、我々が生きているということが、実は死んでおる。

死につつあるということで、一日生きたということは、一日死んだということ。

我々は今まさに生死しておるということ。

そして、それを私たちはただ心に、頭の中だけに思うのではなく、一息一息の中にそれを実現しているんだと実感することが大切だ。





この生死を実感するのが葬儀や法事と言った法要だと私は考えています。



「亡くなった人にお経なんか聞こえないから意味がない」


という人もいます。しかし、亡くなった人、亡くなった人の心は確実に私達の中にあります。手を合わせることで亡くなった方の心と自分の心が一つになっていきます。



その心にお経が入ってくるのです。


人は亡くなったら終わりではありません。


亡くなった人の心を誰もが受け取ることができます。


受け止めた心は私達の中で生き続けます。


受け止めるためには自分の心を調える必要があり、受け止めた後もその心を自分のものとしていくために心を調える必要があります。



そのために法要という習慣があるのです。


本当に必要がなければ習慣は残りません。


今でも葬儀・法事が習慣として残っているのは、法要をすることで我々は今まさに生死していることを、心に、頭の中だけに思うのではなく、一息一息の中にそれを実現しているんだと実感することができてきたからだと思います。



ですから、私は


「大切な人の心を受け取り、その心と共に生きていくことを改めて実感するのが葬儀や法事などの法要」


だと考えています。

供養の心と靴の洗い方

500洗った靴


私が小学生だった頃、週末の宿題の1つは「上靴を洗うこと」でした。


30年が過ぎた今でも娘たちが同じ宿題をしています。


先日、上靴と一緒に普段使っている靴(外履きの靴)も洗うことになりました。


娘達は驚くほど短時間で靴洗いを終えて


「終わった~!」


と遊びに行こうとしていたので、洗った靴を見てみると・・・・


明らかに洗えていません。


靴の中に水を入れて たわしでこすると、水はあっという間に泥水に・・・


泥水を捨て、再び水を入れてこすると、あっという間に泥水に・・・


これまでにため込んだ汚れがすごすぎて、なかなかきれいになりませんでしたが、一緒に繰り返し洗うことで最終的にはきれいになりました。





私達は普段「供養【くよう】」という言葉を使います。


供養とは「尊敬をもって,ねんごろにもてなすこと」と仏教語辞典に書いてある通り、心を込めてもてなすことです。



御先祖様を供養するのであれば、御先祖様を尊敬し、そこにいるかのように心を込めてお参りすることが大切です。



仏教語辞典の「供養」にはさらに


仏教では仏・法・僧の三宝【さんぼう】や父母・師長・亡者などに,香華【こうげ】・灯明【とうみよう】・飲食【おんじき】・資材などの物を捧げることをいう。




とも書いてあり、なんだか難しそうです。


難しそうだし しきたりなどが面倒な印象があるため、葬儀や法事などの法要の際に「供養」は「依頼するもの」と考えている人が多いように感じるときがあります。


しかし、供養はあくまでも自分自身が「相手を尊敬し、その相手がそこにいるかのように心を込めてお参りする」ことが大切です。


だれかに「してもらう」ことではありません。


・・・でも難しそうだから誰かに頼みたい。


そう思ってしまいます。


そんなときに大切なのは僧侶や古くからの習慣に詳しい人と「一緒に供養」することです。


娘達は外履き用の靴の洗い方を知りませんでした。


上履きと同じように洗って失敗をしていましたが、洗い方を知り、その方法を一緒に実行することできれいに洗い上げることができました。



同様に「供養」も、1人でしようとしたときに万が一間違っていたとしても、誰にも指摘してもらえず間違ったままになってしまいます。


昔からの習慣などを知っている人と一緒に供養することで多くのことを学ぶことができるのではないでしょうか。

草刈りの範囲を広くしていくことの大切さ


500草刈りの範囲


草刈りをしているとき「どこまでやろうかな?」と悩むことがあります。


それは畑の草を刈っていると、畑の外の道路に生えている草が目に入ったときです。




さぼり癖のある私は


「畑の草刈りをしようと考えて作業を始めているので、道路は作業計画にないので次の機会にしよう」


と考え、先送りにしてしまうことがあります・・・




こんな時、臨済宗の和尚様で禅の教えを一般の方に分かりやすく説いたことでも有名な山田無文老師がたびたび著書でも説かれた言葉を思い出します。





 臨済禅師は、「随処に主と作れば、立処皆な真なり」とおっしゃっております。どこへ行っても主になって、主体性を失うな、主人公になれ。そうすればその人の行動には間違いはない。こうはっきりと示しておられるのですが、これを、どこへ行っても自由に勝手なことをしてもよいというお言葉と解釈するなら、大変な間違いだと言わねばなりません。


 「随処に主と作れ」とは、威張れということでもなければ、自由に勝手なことをせよということでもありません。どこへ行ってもその場所を愛せよということです。愛情を持てということなのであります。


 たとえば、電車に乗っていて、これは自分の電車だと思うなら、紙屑一つ落とせんはずです。公園も俺のものだと思ったら、花一本折ることもできないでしょう。京都を俺の街だと思うなら、京都を愛さずにはいられません。それぞれの街を自分の故郷と思えるなら、その土地を愛さずにはいられません。日本は俺の国だと思ったら、日本を愛し大切にせずにはいられんはずです。そのように、すべてが自分だと思い、そこに愛情をもっていくならば、間違ったことなどできんと、臨済禅師は言われているのであります。







自分がいつも使っている道路も自分のものだと思ったのなら、草刈りをせずにはいられないはずなのです。



全てを自分のものと思えない未熟な私は「道路の草刈りは後日・・・」となってしまうのです。


だからこそ、めんどくさがって、やるべきこと(草刈り)を先送りしそうになったとき、山田無文老師の言葉を思い出し、一歩を踏み出し道路の草も処理するようにしています。


早く、意識しなくても一歩を踏み出せる人間になりたいです・・・
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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