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新亡供養【しんもうくよう】 平成29年

500新亡供養170602

報告が遅くなってしまいましたが、先月京都へ行ってきました。



目的は東光寺(静岡市清水区横砂)の御本山である



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妙心寺での新亡供養【しんもうくよう】



に参加するためです。



・・・・引率をさせていただくようになって数年になりますが、毎年お寺に帰ってきてから写真の少なさに後悔をしています。
 カメラを持参するのですが、圧倒的な雰囲気に飲み込まれてしまい、私には法要の前後では撮影することができません・・・



そんな新亡供養とは全国にある3400の妙心寺派(臨済宗:禅宗)のお寺では檀信徒の方が亡くなった場合、葬儀を執り行います。



 そして決まった日数や年数ごとに法事(年忌法要)を営む習慣があります。



 新亡供養はこの年忌法要のとても丁寧な法要と考えていただければ良いのかと思います。



 亡くなられて1年以内の妙心寺派の檀信徒(出席希望者)が本山に集まり法要をするのです。



 管長様(3400か寺の中心となる和尚様)が導師をされ、多くの本山の和尚様方と共に、龍の天井画で有名な法堂【はっとう】で行う法要は厳かであり、迫力があります。



 例年は2500人ほどの申し込みがあるそうですが、もちろん1日で全員が法要をすることはできませんので何日にも分けて法要が行われるのです。



 新亡供養と普段の法事や葬儀との1番の違いは参列者だとも言えます。



 法事や葬儀の場合には亡くなった方とご縁の深い方も、少しだけご縁のある方もいらっしゃいます。しかし、新亡供養の場合には参列者全員が亡くなられた方の身内か、かなりご縁の深い方となっています。もちろん亡くなられた方々は別々の人であり、同じ別れなどありません。しかし、大切な方を亡くしたという感情を共有することができるのが新亡供養の特徴でもあるのではないでしょうか。



 すべての法要がそうではありますが、新亡供養は特に「亡き人と今を生きる人、そしてお参りをする人達、お互いがお互いを想い合う法要」だと感じています。



供養とは亡き人の心を受け継ぐことである という言葉もあります。



 様々な法要に参加させていただくたびに 大切な人が亡くなったとしても、時間や場所など関係なく手を合わせお参りすることで亡き人を感じ、亡き人と共に歩んでいくことを誓うことができるのだと実感ができます。


500新亡供養170601

客観的な評価 【妻は話を何も覚えていなかった・・・】


東光寺(静岡市清水区横砂)の境内には袖師保育園があります。



年中組と年長組の園児たちは毎月お寺の本堂に坐禅体験にやってきます。



今月も一生懸命坐禅に取り組む姿勢を見せてくれました。

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園児の坐禅体験は

・坐禅(2回)
・お参り
・法話
・お茶


と進んでいきます。



坐禅やお参り、お茶はいつも同じ動きです。



しかし、せっかくお寺に来てくれているので法話は毎月異なる話をするようにしています。




今回は「みんなの中に仏様の心があるんだよ」ということを伝えるべく準備をしました。



普段の生活の中で仏様の心に気がつくことはなかなかできません。



存在することも知らないことがあります。



500坐禅体験1707192



と、いうことを体感してもらいたと考えて普段は手渡しするシールを事前に座布団の下に隠しておきました。



坐禅が終わり園児に



「シールはみんなの近くにあるよ!」



と伝えると、園児達は一生懸命に探します。

500坐禅体験1707193


そして、シールを見つけるとうれしそうに「あった、あった!!」と笑顔になります。



そこで、



シールが座布団の下にあったことに気がついていた?気がつかないよね。

それと同じように、みんなの中には仏様と同じくらいきれいな心が生まれたときからあるんだよ。

座布団をめくったらシールが出てきたように、今日やった坐禅などの良い習慣を身につけて行くと自分の中のきれいな心に気がつくことができるよ!これから今日みたいに坐禅をがんばってね!!




と話しました。園児たちは「はーい!」ニコニコと聞いてくれていましたので、個人的には満足して坐禅体験を終了しました。



終了後しばらくしてから坐禅体験の手伝いや写真撮影をしてくれていた妻に



「今日の話しの内容はどうだった? 子供達に伝わったかな??」



と聞くと



「・・・」



「う~ん・・・」



「ごめん、何を話したか覚えていない!」



とのことでした・・・
法話など完成すると思ったことを話してくれ妻に原稿を見てもらったり、話を聞いてもらい感想を教えてもらっていますが、今回は記憶にも残らないような自己満足の法話をしていることを教えていただきました・・・

施餓鬼で食事をいただく覚悟!! その3


夏になると「施餓鬼【せがき】」と言う言葉を耳にする人もいるのではないでしょうか。


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今回は この施餓鬼と食事の関係について書こうと考えたのですが、いっぺんに書くと文字数が増えすぎてしまうので3回にわけて書こうと考えています。



本日はその3回目です。


1回目は施餓鬼の説明(施餓鬼とは餓鬼に施す儀式)
2回目は施し方 
について書きました。
※前回の記事はこちらです→【その1】【その2】





施餓鬼とは餓鬼に施す【ほどこす】儀式です。



阿難尊者に餓鬼道に落ちない方法を聞かれたお釈迦様が「多くの餓鬼や僧侶に食べ物や水などを供え供養(布施)すれば救われる」と説いたことに由来する行事です。




そして施す(布施する)ときに

・施す者

・施される者

・施物

それぞれが清浄であることが求められています。





僧侶として施餓鬼の法要に出頭【しゅっとう:参列すること】をすると、法要後に食事を出していただくことが多くあります。



東光寺(静岡市清水区横砂)も、周辺の多くの寺院も法要後に僧侶に食事を提供し、参列した檀信徒にお弁当などの食事を出すことが多くあります。



私はこの法要後の食事を頂くたびに、緊張をします。




それは、この食事も施餓鬼の法要の一環なのだと考えているからです。




施餓鬼の由来に、僧侶に食事を布施すること



が含まれているのです。ですから、お経を唱え洗った米や水をお供えするだけでなく最後の食事も大切な法要の一部だと思うのです。



さらに、食事を布施するのですから、布施が成り立たなくてはいけません。



・僧侶のことを思い施してくださる方

・用意してくださった食事



この2つは清浄であることは間違いありません。



しかし、



施される者 (つまり私)が清浄でなくては・僧侶のことを思い施してくださる方の思いや用意してくださった食事を無駄にしてしまいます。




もちろん、食べている最中だけ意識をしても意味がありません。僧侶としての生き方が問われているのだと感じますので、各寺院で、本当に今の自分の生き方は正しいのか考えながら食事をいただいています。

施餓鬼で食事をいただく覚悟!! その2

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夏になると「施餓鬼【せがき】」と言う言葉を耳にする人もいるのではないでしょうか。



今回は この施餓鬼と食事の関係について書こうと考えたのですが、いっぺんに書くと文字数が増えすぎてしまうので3回にわけて書こうと考えています。



本日はその2回目です。





前回は施餓鬼の説明(施餓鬼とは餓鬼に施す儀式)を書かせていただきました。
※前回の記事はこちらです(その1 施餓鬼の説明)




施餓鬼とは餓鬼に施す【ほどこす】儀式です。



施すことを布施【ふせ】と言います。



布施は見返りを求めず自分にできることを誰かの為に行うことです。



そして、布施が成立するためにはある条件を満たす必要があります。



それは



・施す者

・施される者

・施物

それぞれが清浄であり、執着の心を離れていることです。





お釈迦様は「多くの餓鬼や僧侶に食べ物や水などを供え供養(布施)すれば救われる」とおっしゃいました。


しかし、多くの餓鬼に食べ物や飲み物を御供えしなくていけないはずなのに、施餓鬼の法要の為に用意されている

洗ったお米(洗米)はたいてい、1~2合、

水は500ml程度です。



これで足りるのでしょうか。



多くの餓鬼に施すのだから、米も水も台からあふれるほどたくさん必要ではないのか。私は施餓鬼の由来を初めて聞き、御供えされているお米や水を見たときに正直に言いますと、「これじゃ足りないなぁ」と思ってしまいました。



しかし、そうではないのです。前回の記事で施餓鬼の法要は


お米やお水をお供えすることによって供養すると同時に、水一滴・お米一粒でも満足することができるはずの自分の心を見つめ直
す法要。




と説明をさせていただきました。



水一滴では喉は潤わない、米一粒ではお腹は満たされない。そう感じてしまいます。



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仏教では私達の心を水面に例えることが多くあります。


私達の心はおだやかに調っているときもあれば、怒りや貪りなどの感情によってぐちゃぐちゃに激しく動いているときもあります。


水面の例えで言えば、心が調っていれば水面はおだやかで動くことがない状態です。反対に心が激しく動いている状態は水面に無数の波が様々な場所で発生し、水面が乱れている状態となります。




しかし、この例えは波がない状態と波立っている状態を二極化するために用いているのではありません。


「波が悪い物」と言っているのでもありません。波は私達が受け取った感情・情報だと思っていただければ良いと思います。


心が調っている状態、すなわち水面に波ひとつない器があったとします。ここに水を落とします。すると、美しい波の模様が広がっていき、そして再び元の水面に戻っていきます。


逆に波立っている水面に水を一滴落としたとしても、水面の変化に気が付くことはできません。




水一滴の布施を水面の例えに当てはまるならば


・施す者は、水面に水を落とす人

・施される者は、水面

・施物、水面に落ちる水



となります。




つまり、「水一滴・お米一粒でも満足することができる」には自分自身の心を調えておく必要があるのです。


心が調っていれば、おだやかな水面に美しい波が伝わっていくことに気が付けるように水一滴、お米一粒の有難さに気が付くことができるのです。


心が調っていなければどんなに沢山のお米や水を水面に落としても、その尊さに気が付くことができないのです。



このように心が調っている状態であれば、少しの変化が周囲に広がっていき、やがてその素晴らしさに気が付くことできるのです。



もちろん、水面に水を落とす人がぐちゃぐちゃに水を落とせば水面は乱れてしまいますし、水面に落ちる水が汚れていれば受け止める水までもが汚れてしまいます。



だからこそ、施す者・施される者・施物が全て清浄でなければならないのです。




以前、布施は見返りを求めず自分にできることを誰かの為に行うことです。



と言われたとき「自分にできること」を甘く考えていました。



10個のお菓子を手に入れたとき、まずは自分の分として1つ確保に残りの9個を差し出せばよいと考えていました。


しかしこれでは「自分の分を確保する」といった欲の心が残ってしまっているため



・施す者が清浄ではなく布施が成立しません。



本当に大切だと思うからこそ差し出す心が必要になってくるのです。大変厳しいことなのですが、布施をしたいと考えるならば
10個のお菓子を手に入れたとき、10個とも誰かに差し出す覚悟が必要になってくるのです。



そして、このような布施の心はすぐに完成できるものではありません。



積み重ねが必要になってきます。



その積み重ねの1つが施餓鬼の法要なのだと思います・・・



(続きは次回・・・)
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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